18.6.3.

 

イエスは、ガリラヤのカナで、「最初のしるし」と「第二のしるし」を行われました。第三番目の奇跡は、「ベテスダと呼ばれる池」での癒しです。

1.目を留め理解して下さるイエス

イエスは、「ユダヤ人の祭り」(1)のために、再び「エルサレムに上られ」(1)、「ベテスダと呼ばれる池」(2)に行かれました。「ベテスダと呼ばれる池」は、神殿にいけにえをささげに来た巡礼者たちの沐浴のため、また、いけにえの動物を洗ったりするため、つまりきよめのために用いられました。しかし、この池は、次第に癒しの力がある池だと考えられるようになりました。それは、主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かし、その時に最初に池に入った者は、どのような病気も癒されるという伝説があったからです。そのため、この池の辺には、「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せって」(3)いました。大勢の病人たちの中に、「三十八年もの間、病気にかかっている人」(5)がいました。彼も、この池で、自分が癒される奇跡を待ち望んでいました。しかし、彼は体を動かすことが出来ず、誰も彼を池に入れてくれる人はいませんでした。彼は誰からも目に留められませんでした。そこに、イエスが来られ、「彼が伏せっているのを見」(6)られたのです。私たちも、自分ではどうすることもできない状況に置かれることがあります。そんな時、私たちは孤独と無力感を感じますが、イエスが目を留めておられるのです。私たちの方からはイエスを見ることは出来ませんが、イエスは私たちに目を留められるのです。また、イエスは、彼の病気が「もう長い間のことなのを知って」(6)おられました。すなわち、イエスは、この病人が何を苦しんでいるのか、どれだけ苦しんでいるかを理解しておられたのです。イエスは、私たちの問題、苦しみ、痛み、悲しみをよく分かって下さるのです。

2.よくなりたいのか

イエスは、この病人が癒しを必要とし、じっと待ち続けていることを知っておられました。そして、イエスは、この人の悩みや苦しみ、その思いを全て知っておられた上で、「よくなりたいのか」(6)と彼に尋ねられました。しかし、この質問に対し、彼は、「はい」とも「いいえ」とも答えませんでした。彼は、自分がいかに困難な状況、可哀そうな状況にあるかをイエスに訴えました。彼は、これまで様々な方法(医師や薬や治療)を試して、何とか良くなろうとしましたが、良くならず、この池に辿り着きましたが、ここでも癒されることはありませんでした。彼は、初めは「よくなりたい」と熱心に思っていたことでしょう。しかし、次第に、「よくなりたい」という思いは薄れてしまったのです。彼は、期待する心を失い、「どうせだめだ。無理だ」と、諦めてしまっていたのです。人は、何回も挫折が続くと、もう期待すること自体をやめてしまうのです。そして、彼は、自分が良くならない理由を、誰も自分を助けてくれないとか、自分が行こうとすると他の人が先に行くとか、状況や人のせいにしました。私たちも、物事がうまく行かないことを、状況や人のせいにすることはないでしょうか。いつまでも他の人や状況のせいにして、不満や恨みを募らせるだけでは、何の進展もありません。本当に益々駄目になるのです。この病人は、もうずっと長いこと、「ベテスダ」での病人の生活を送ってきました。そのような彼に、イエスは、「本気で変わりたいのか」と聞かれたのです。イエスは、私たちにも「よくなりたいのか」と問いかけられています。イエスは、私たちの必要を十分にご存知ではありますが、私たちが自分の口で必要を主に告白し、求めることを求めておられます。マタイ7:7

3.起きて、床を取り上げて歩きなさい

イエスは、その病人に言いました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8)「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」(9)のです。どうして、彼はすぐに癒されたのでしょう。この病人がイエスを信じたので、その信仰によって癒されたと言う人がいます。しかし彼は、イエスがどのようなお方であるか知りませんでした。後で神殿でたまたまイエスに出会って、イエスがどなたか分かったのです(14,15)。この癒された時点では、イエスに対する知識も信仰も全くありませんでした。この奇跡は、この人にイエスに対する信仰があったから起こったのではなく、イエスの言葉に権威と力があったから起こったことなのです。イエスの言葉には、権威と力があります。風や波という自然界に対して(ルカ8:22-25)、悪霊に対して(ルカ8:26-39)、病気に対して(ルカ8:40-48)、死に対して(ルカ8:49-56)。これらのものに信仰があったからではなく、イエスの言葉に権威と力があったのです。王室の役人は、イエスの言葉に権威と力があることを知っていました。ヨハネ4章。私たちに命を与え、力を与えるのは、主の言葉です。マタイ4:4。イエスは、私たちにも「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と語っておられます。「床」とは、古い否定的な考え方であり、その上に私たちは生きていないでしょうか。すなわち、「どうせ無駄だ。何をしてもだめだ」という失望、挫折、諦めです。そのような否定的な考え方を捨てて、新しい歩みをするようにということです。そして、それを可能とするのが主の言葉なのです。

イエスは、私たちの苦しみや悲しみ、辛い思いを理解して下さいます。そして、その上で、敢えて私たちに「よくなりたいのか」と問いかけておられ、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と語っておられます。絶望的な状況であっても、「どうせ駄目だ」という諦めきった否定的な考えを捨てて、新しい歩みをさせていただきましょう。そのために、主の語りかけを聞き、主の言葉をいただきましょう。

 

 

 

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