14.12.14

ヨセフの信仰
自分の正しさや常識で神様を制限しない

マタイ1:18-25

マリヤは御使いガブリエルから男の子を生むと告げられ、とても驚きました。
しかし、マリヤは御使いを通して語られた神様のメッセージを信じ受け止めたのです。
マリヤは、救い主の母親として選ばれ、救い主を世に産み出すという大役を果たしました。
しかし、ヨセフもヨセフにしか出来ない重要な役割を果たしていたのです。
ヨセフを通してどのようなことが教えられるのでしょうか。

ヨセフは婚約者マリヤが正式な結婚をする前に妊娠したことを知りました。
約2000年前のユダヤでは、「未婚の母」は重い刑罰を受ける罪でした。
そのため、ヨセフは非常に悩みました。ヨセフが「正しい人」(マタイ1:19)だったからです。
正しい人」とは「律法に忠実に従っている人」という意味です。
つまり、ヨセフは「ルールを守る人」または「常識のある人」であったのです。
ヨセフは、常識のある「正しい人」であったゆえに、
妥協して間違ったことを受け入れることができなかったのです。
また、ヨセフマリヤを愛していたので、彼女を人々の前でさらし者にして恥をかかせ、
石打の刑によって死に追いやるということも出来ませんでした。
そこで、ヨセフマリヤに離婚状を与えて、「内密に去らせようと決めた」のでした。
それは、マリヤが裁かれ、死刑になることを防ぐためでした。
ヨセフがこのように考え、実行しようとしたことは、人間的には正しいことでした。
ヨセフは、考えられる限り最善と思われる方法をとろうとしたのです。
しかし、それは、人類に対する神様の救いのご計画を妨げ、損なわせてしまうことでした。

旧約聖書には、キリストは、「ダビデの子孫」として生まれると預言されていました。
しかし、マリヤは「ダビデの子孫」ではありませんでした。
一方、マタイ1:1-17の「イエス・キリストの系図」にある通り、ヨセフは「ダビデの子孫」でした。
ダビデの子孫」であるヨセフマリヤを妻として受け入れた結果、
イエス様も「ダビデの子孫」となり得たのです。
しかし、もしヨセフとマリヤが別れてしまい、結婚しなかったのなら、
イエス様は「ダビデの子孫」とはなりえませんでした。
すなわち、イエス様は預言されていたキリストではなかったということになり、
人類に対する神様の救いのご計画は実現しなくなってしまいます。
このように、ヨセフがマリヤと別れようとしたことは、
神様の救いのご計画を損なわせてしまうことだったのです。
ヨセフの「正しさ」や「常識」が神様の御業を妨げてしまいそうになったのです。

私たちも自分にとっての「正しさ」や「常識」が神様の御業を妨げてしまったり、
神様の祝福を受け損なわせてしまうことはないでしょうか。
ヨセフのように、常識的に考えて正しいと思える方法を取ろうとして、
神様の働きを破壊してしまうようなことはないでしょうか。
人間は誰でも人生や生活の中に安定を求めるものです。
しかし、気を付けていないと、居心地のよい生活に慣れ親しみすぎて、
そこから出て新たなことに挑戦しようとしなくなってしまうのです。
そこには何の成長も発展もありません。
神様は私たちを新しい道に導いたり、新しい信仰のレベルへと引き上げようとしたり、
新しい働きをさせようとしたり、私たちの人生に新しいことをしようとしておられます。
しかし、常識的に考えたら、それは理に合わないことであったり、
割に合わないことのように思えるかもしれません。
それで、多くの人々は労力を費やすことや、危険を犯すことを避けようとします。
そして、今までの居心地の良い所にずっといたいと思うのです。
ヨセフもより平和で安全な方法を選ぼうとし、マリヤを「内密に去らせ」ようとしました。
しかし、もしそうするなら、神様の救いの計画は妨げられ、損なわれてしまうのです。

ヨセフはマリヤのことを一人で悩み、心を痛め、どうしたら良いかと色々と考えました。
そのような時、「主の使いが夢に現れてヨセフに語りかけました。
ヨセフはマリヤの身に起こったことが「聖霊による」ものであることを教えられました。
そして、神様の導きに従って、マリヤを妻として受け入れることにしたのです。
こうして、ヨセフは初めの計画とは全く正反対な決断をしたのです。
ヨセフとマリヤの結婚生活には、初めから困難が予想されていました。
それでも、ヨセフは神様の語り掛けに文句も言わずに従い、黙々と実行していきました。
このように、ヨセフはイエス様が「ダビデの子孫」として生まれるため、
また人類の救いの御業ために、非常に重要な役割を担っていたのです。

私たちにも一人一人神様から託されている役割があります。
それは自分にとって理解出来ないことかもしれません。
神様の御業は人間の常識をはるかに超えた方法で現されることがあります。
それは、労苦が求められるものであったり、リスクや犠牲が伴うものかもしれません。
しかし、自分の正しさや常識という枠に囚われることなく、
ヨセフのように、黙々と神様の導きに従いましょう。
そして、神様の働きのために用いていただきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師