18.10.14

ヨタムは、「二十五歳で王となり」、「十六年間」王として南ユダ王国を治めました(1)。ヨタムは、良い王とされていますが、どのような王だったのでしょうか。

1主の目にかなうことを行った

まず、ヨタムは、「すべて、主の目にかなうことを行った」(2)と言われています。「主の目にかなうことを行った」という説明は、良い王たちに見られる特徴です。「主の目にかなうこと」とは、偶像を捨て、主を求めることです。ですから、ヨタムも、他の良い王たちと同じように、偶像を捨て、主を求めたのです。
しかし、ヨタムと他の良い王たちとの大きな違いが一つありました。それは、他の王たちが「主の目にかなうことを行った」のは、初めのうちだけでしたが、ヨタムの場合は、一生涯ぶれることなく「主の目にかなうことを行った」ということです。他の王たちは、初めのうちは、主を求めましたが、主の祝福が与えられて、繁栄して来ると、高慢になり、主から心が離れて行きました。しかし、ヨタムは、初めから終わりまで変わることなく、主を求めたのです。
ヨタムの父ウジヤは、自分の成功に高ぶり、神殿に入り、自分で香をたこうとしました。香をたくことは、祭司にしか許されていないことで、王であってもそれは許されません。しかし、ウジヤは、神の定めを破り、自らを高く上げ、栄光を取ろうとしたのです。そのため、彼は、死ぬまでツァラアトに冒され、一生涯隔離されてしまいました。ヨタムは、「父ウジヤが行ったとおり」、「主の目にかなうことを」行いましたが、高慢になって「主の神殿に入るようなことはしなかった」のです(2)。
主を求め、「主の目にかなうことを行った」ヨタムは、主の祝福が与えられました。そのため、ヨタムは、様々な事業を行うことが出来ました。神殿の北側に「門を建て」、「城壁」の拡張工事をして、神殿の守りを強化しました(3)。「ユダの山地の町々を建て、森林地帯には城塞とやぐらを」(4)築きました。それは、防衛を強化して、農業を守り、奨励するためでした。また「アモン人の王と戦い、彼らに打ち勝」(5)ちました。アモン人は、父ウジヤが死んだ後、南ユダ王国に反逆したのでしょう。ヨタムは、その反乱を鎮圧し、アモン人から膨大な貢ぎ物を受け取るようになりました。
こうして、「ヨタムは勢力を増し加え」(6)ました。ヨタムは、南ユダ王国を軍事的にも経済的にも繁栄させた優れた王となりました。それは、ヨタムが「すべて、主の目にかなうことを行った」、すなわち主を求めたからです。

2.最後まで主に従う道に歩んだ

ヨタムが一生涯「主の目にかなうこと」を行うことが出来たのは、「自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたから」(6)です。「確かなものとした」とは、「心を定めた」という意味です。ヨタムは、「主を信じ、主に従う道を行く」と、「心を定めた」のです。ですから、良い時にも悪い時にも、どんな時にも、主から離れることはありませんでした。ヨタムは、自分の感情に従ったり、自分の置かれている状況に従って、信仰が上がり下がりしたり、ふらついたり、ぶれたりしませんでした。ヨタムの信仰は、一生涯、死ぬまで、変わらなかったのです。
ヨタムの王としての治世は、16年間で、他の良い王たちに比べて短いものでした。アサやヨシャパテやウジヤについては、多く書かれていて、戦いにおいて大勝利するなど、彼らの華々しい業績が記されています。ヨタムについては、わずか9節しか書かれてなく、目覚ましい業績もありませんでした。ヨタムの人生は、目立ったところのない、地味な人生だったと言えるでしょう。しかし、ヨタムについては、最後まで、悪いことは一切書かれていません。ヨタムは、最後まで、主を信じ、主に従う道を歩み、その道から逸れることはなかったのです。これが、私たちが目を留めるべき点です。
私たちは、成功や大きな事や華々しいことに目が捕らえられてしまいます。しかし、大切なことは、たとえ華々しい業績がなくても、目立たなくても、最後まで忠実に主の道を歩むことです。主は、私たちにも「死に至るまで忠実でありなさい。」(黙示2:10)と語っておられます。イエスご自身も、私たちを救うために、父なる神の御心に「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:8)。また、パウロも「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(Ⅰコリント9:24)と言いました。それは最後まで走り通しなさいということです。主の道を歩むということは、幸いなことですが、途中、様々な困難や戦いがあります。そのような時、「止めたい。逃げたい。そうすれば楽になる」という誘惑があります。そのような時も、「自分のからだを打ちたたいて従わせます」(Ⅰコリント9:27)。すなわち、何があっても、主を信じ、主に従うよう「心を定める」のです。

弱い私たちが、心を定めるためには、私たちの心が強められなければなりません。私たちの心が強められるためには、どうしたらよいのでしょうか。
一つは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(へブル12:2)ことです。主がどのように恵み深いお方であるかを常に思い起こすのです。そうすれば、自ずと感謝と喜びが湧き出て来て、「心が元気を失い、疲れ果てて」(へブル12:3)しまうことはありません。
また、「主を待ち望む」(イザヤ40:31)ことが必要です。「主を待ち望む」とは、主を求め、主に近づくことです。私たちが主を求め、主に近づいて行く時、主も私たちに近づいて下さり、私たちを主の臨在で満たして下さり、新しい力を与えて下さるのです。それによって、試練の嵐をも飛び越え、「走ってもたゆまず、歩いても疲れ」ません。
ヨタムは、一生涯「主の目にかなうことを」行いました。それは、ヨタムが「主の前に、自分の道を確かなものとしたから」です。私たちも、ヨタムのように、心を定め、主を信じ、主に従う道に歩みましょう。そのために、常に主を見上げ、主を求め、新しい力を頂きましょう。

Filed under: 主を求め礼拝した王たち伊藤正登牧師