201227
先週はクリスマス礼拝でした。イエスはベツレヘムの家畜小屋でお生まれになり、飼い葉おけに寝かされました。イエスは預言されてきたキリストで、へりくだって貧しく生まれた方です。今日はその続きでもあります。このイエスをパンという見方で考えてみましょう。
1.イエスはいのちのパンである
イエスはご自分を天から下ってきた神のパン、いのちのパンと言われました(ヨハネ6:33、35、48、50、51、58)。さらに最後の晩餐の席でも、イエスはパンを取り「これはわたしのからだです」(マタイ26:26)とも言われました。ですから、イエスはいのちのパンなのです。
興味深いことに、イエスはベツレヘムで生まれました。ベツレヘムとは「パンの家」という意味で、イエスはパンの家に生まれたいのちのパンであるとも言えるでしょう。
また、イエスは飼い葉おけに寝かされました。飼い葉おけは家畜の餌を入れるおけです。ですから、イエスはパンのように食べられる存在とも言えるでしょう。
また、イエスの生まれた日についても、一説ではパンの祭りの期間であった可能性もあります。
(捕囚から帰ってきたイスラエル人たちが最初にしたのは第7の月の仮庵の祭りでした。バプテスマのヨハネの父ザカリヤはアビヤの組であり、4ヶ月目の第10の月の後半に奉仕に当たりました。そのころ、妻エリサベツが身ごもり、第3の月の後半にマリヤがイエスを身ごもり、その10ヶ月後の第1の月の後半のパンの祭りの期間にイエスが生まれたというのです。つまり、イエスは第1の月のパンの祭りから第1の月の過ぎ越しの祭りまで人として生きたとする説があります(ネヘミヤ8:2-15、Ⅰ歴代誌24:10、ルカ1:5、36)。)なお、第1の月とは、現在の3月末から4月上旬ごろまでです。
いのちのパンは霊的なパンであり、これを食べると心の渇き、霊的な飢えがありません(ヨハネ6:35)。喜びが沸き上がります(ヨハネ7:37-38)。永遠のいのちを持ち、死なないのです(ヨハネ3:16、6:47、50、51、58)。そんな素晴らしいパンがイエスなのです。
2.いのちのパンを食べる
パンは人に食べられるためにあります。同じように、いのちのパンであるイエスは人に食べられる存在だというのです(ヨハネ6:50-51)。パンであるイエスを食べるということは、イエスを信じるということです(ヨハネ6:35)。
パンが与えられたら誰でも食べてよいのです。このイエスを誰でも信じることができるし、信じたら救われるのです。なぜならイエスは人間のために犠牲となって死んでくださったからです。イエスの犠牲のおかげで、だれでも罪の赦しを受け、神の救いを受けるができるのです。
イエスは神のあり方を捨てて人となり、貧しい姿で、身分の低い者として、地上に来てくださり、最後には十字架で人間の犠牲となられました(ピリピ2:6-8)。しかし、そのイエスこそ神なのです(ヨハネ14:9)。
3.生きるために必要な御言葉のパン
イエスを信じるというのは、一度きりのものではなく、継続するものです。信仰とはいつまでも続くものです(Ⅰコリント13:13)。パンを食べて生きていくように、イエスを信じ続けて生活することが大事です。そのために必要なのは、御言葉を聞いて、悟ることです。すなわち、霊のパンである神の御言葉(レーマ)を毎日聞くことです(マタイ4:4)。聖書はロゴスですが、神から個人的に語られる御言葉がレーマです。
イスラエル人は荒野で神から御言葉とマナを与えられました(出エジプト16:4)。彼らが生きるために必要なのはパンと神の御言葉でした(申命記8:2-3)。そのとき生活も守られました(申命記8:4)。私たちも毎日主の御言葉を聞き、悟りましょう。私たちの命と生活が守られるのです。
また、イエスの御言葉がとどまるなら、何でも欲しいものを求めることができ、それが与えられます(ヨハネ15:7)。人がパンを食べて力を受けるように、イエスの御言葉を聞き、信じて、何でもいただけるのです。そんな素晴らしいいのちのパンがイエスなのです。
イエスはいのちのパンです。イエスを信じるなら救われます。心の飢え渇きは消え、喜びで満ちます。また、イエスの御言葉を毎日聞いて悟ることで生活は守られ生きていくことができます。新年も日々御言葉を聞き続け、悟るように努め励みましょう。
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