18.4.8.
いのちのパン
ヨハネ6:1-59
ヨハネの福音書には、イエスが「わたしは~である」と宣言された言葉が7つあります。
「わたしは~です」から、イエスがどのようなお方であるかを知ることが出来ます。
1.信仰のチャレンジを与えたイエス
ヨハネ6:1-14。大勢の群衆がイエスの奇跡を見て、イエスのもとに集まっていました。
イエスはピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5)と尋ねました。
イエスは、「ピリポ」の信仰を「ためしてこう言われた」のです(6)。
ピリポは、すぐに頭の中で計算して、必要な金額を考え出しました。(7)
そこに集まっていた人々は、男だけで「五千人」(10)でしたから、
女や子どもなども入れたら、その倍位の人々がいたと考えられます。
そのような状況の中では、確かに「二百デナリのパンでは足りません」でした。
(1デナリは、労働者の一日分の給与)
アンデレは、「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」(9)を持っている少年を連れて来ました。
しかし、彼も「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9)と言いました。
現実的、理性的に考えたら、そのような僅かなものでは、群集の空腹を満たせません。
弟子たちは、これまでイエスの数々の奇跡を見てきたはずです。
彼らは、イエスが不可能を可能にしてきたことを知っていたはずです。
しかし、彼らは、目の前の現実しか見ることが出来す、理性的にしか考えることが出来ず、
イエスを信じ、信頼し、期待することが出来なかったのです。
弟子たちは、イエスのチャレンジに、「無理です。出来ません」と否定的に答えました。
私たちも現実だけ見て、頭の中で計算し、合理的・理性的に考えて、
可能性がなければ諦めてしまい、祈ることすらやめてしまうことはないでしょうか。
可能性があることだけ祈るのであるなら、それはもはや信仰ではありません。
たとえ可能性がゼロであったとしても、
主を信じ、主に期待して祈ることが信仰なのではないでしょうか。
問題や困難の中で、主は、私たちにも信仰のチャレンジを与えられます。
2.パンではなくイエス自身を求める
イエスは、5つのパンと2匹の魚を取って、
「感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられ」(11)ました。
この時、イエスは、「お願い」の祈りではなく、「感謝」の祈りをささげたのです。
信仰の祈りとは、感謝の祈りです。信仰がなければ、感謝の祈りは出来ません。
現実にまだそれを見ていなくても、実現していなくても、
与えられたものとして信じて感謝の祈りをささげるのです。
感謝の祈りの後、イエスは、パンと魚を人々に分け与えられました。
すると、人々は「十分食べ」ることが出来たのです。
イエスは、私たちの現実的な必要を満たして下さるお方です。ピリピ4:19。
そこで人々は、イエスを「王とするために、むりやりに連れて行こうと」(15)しました。
彼らは、イエスが王になってくれたら、パンに困らないだろうと考えたのでしょう。
そのため、イエスは、「ただひとり、また山に退かれ」(15)たのでした。
なぜなら、イエスがこの世に来られたのは、王になるためではなく、
しもべとなるためであり、人間を救うために十字架にかかって死ぬためだったからです。
しかし、翌日、人々は再び「イエスを捜してカペナウム」(24)までやって来ました。
そんな彼らに対して、イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、
しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26)と言いました。
人々が求めていたのは、イエスではなく、イエスが与えて下さるパンだったのです。
単に、イエスを自分たちのために利用しようとしていただけだったのです。
私たちも、この群衆のように、パンを与えて下さるイエスを求めるのではなく、
イエスが与えて下さるパンだけを求めてしまってはいないでしょうか。
私たちもただイエスを自分のために利用しようとしているだけではないでしょうか。
3.永遠のいのちを与えるイエス
イエスは、人々に「わたしがいのちのパンです(35)」と言われました。
これは、イエスが「永遠のいのち」(40,42,54)を与えるお方であるということです。
「永遠のいのち」とは、文字通り、「永遠に生きること」です。
しかし、「永遠のいのち」とは、単に人生の長さのことではなく、質のことなのです。
ヨハネ17:3には、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」とあります。
この「知る」という言葉は、単に知的に知ることではなく、
人格的な交わりによって「知る」ということです。
キリスト教用語辞典によると、「永遠のいのち」は、次のように定義されています。
「死によっても断ち切られない永遠なる神との永遠の交わり。
信じる者のうちに今すでに与えられており、時間を超越して永遠に至る、不滅の命。」
すなわち、「永遠のいのち」とは、いのちの源である神と共にある人生のことです。
神と共にある人生には、本当の喜び、平安、満足があります。(35)
その「永遠のいのち」を得るにためには、
「いのちのパン」であるイエスを「食べる」ことが必要です。( 51、54、58)
それは、イエスを「信じる」ということです。「信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(47)
イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりに背負って、十字架にかかり死んで下さり、その死をもって私たちの罪を処分し、またよみがえって下さいました。
このイエスを信じるなら、罪は赦され、「永遠のいのち」をいただくことが出来るのです。
「永遠のいのち」とは、「死後に与えられるいのち」ではありません。
「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(47)とは、未来のことではなく、現在のことであり、
イエスを信じた時に、すぐに受けることの出来るものであるということです。
私たちの魂が満たされるためには、イエス・キリストを心に受け入れることが必要です。
イエスは、「わたしに来なさい」と、私たちを呼び、招いておられます。
「永遠のいのち」を与える「いのちのパン」であるイエスを信じましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師