もう一つの狭い門

ルカ13:22-30、マタイ7:13-14

210627

マタイ7:13にある狭い門の話は私たちもよく知っています。狭い門についてはマタイ7:13だけでなくルカ13:24にもあります。これらの箇所から狭い門について学んでみましょう。

1.「いのちに至る狭い門」を通ろう

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」(マタイ7:13-14)とあります。ここに、大きな門と狭い門が書いてあります。

a)大きな門

大きな門を通るとは「滅びに至る門」です。この世の物を求める生き方、考え方であり、この世の価値観で生きることです。神を無視して、自分中心に生きることです。多くの人々がそのような生き方をしています。それは楽しく魅力的かもしれませんが、その道の終わりは滅びです。

b)狭い門

狭い門は「いのちに至る門」です。この狭い門とはイエスキリストです。

イエスはご自分を門だと言われました(ヨハネ10:9)。狭い門を通ることはイエスを信じることです。イエスを信じるなら永遠のいのちが与えられ、救われます。

イエスを信じたからと言ってすぐに天国に入るあるわけではありません。それどころか、地上の生活は苦しいことも多いのです。しかし、いのちに至る道は主とともに歩む道です。すばらしい道です。地上では苦しいこともたくさんありますが、最後には天国に入り、永遠のいのちがいただけるのです。

まだイエスを信じていない人は、早くイエスを信じましょう。

2.もう一つの狭い門は救いの達成

a)やがて閉じられる狭い門

ルカの福音書にも狭い門のことが書いてあります(ルカ13:22-30)。その門を通ると神の国があり、アブラハムや預言者たちがそこに入っています。

マタイ7:13の門はイエスを信じて救われることが勧められていますが、

ルカ13:24の狭い門では、戸が閉められる前に入れと言われています(v.24-25)。

戸が閉められたとき、入れなかった人たちはこう言います。「ご主人さま、あけてください。私たちはごいっしょに食事したり、教えていただいたりしました。」(ルカ13:25-26)。つまり、その人たちは主と食事を共にした人々であり、共に主から学びを受けていた人々です。しかし、その人たちは、狭い門に入るための何の努力もしていませんでした。

b)努力とは

狭い門に入るために努力が必要です(v.24)。ここでいう「努力」(v.24)とは、アゴーニゾマイというギリシャ語で、元々は「戦う」という意味で、とくに「賞を目指して争う」という意味があります。ほかに「努力する、頑張る」などの意味があります。つまり、肉の欲望や自己中心の考え、人間的な考え、神なしのこの世の価値観と戦うことです。これが信仰の戦いです。

努力するということは、別の表現で「恐れおののいて、自分の救いの達成のために努める」(ピリピ2:12)、また、「賞を受けられるようにレースを走る」(Ⅰコリント9:24)ということです。このように「努める」、「賞を受けられるように」という一生懸命さが必要なのです。パウロも自分を打ちたたいて御心に従いました(Ⅰコリント9:27)。

救いに行いが必要なのではありません。救いには信仰だけが必要です。しかし、信仰は行いをもって現されるのです。ですから、自分の信仰を現すため、恐れおののき、賞を受けられるようにイエスを目指して一生懸命走りましょう。努力するには聖霊の力が必要です。主を待ち望み力を受けましょう(イザヤ40:31使徒1:8)。

c)この狭い門よりも価値のあるものはない

この門に入れるということは、非常にありがたいことなのです。なぜなら、この救いのために、キリストの聖い血の代価が支払われました。ですから、救いを軽んじたりしないで、恐れおののき、全力で主を求めましょう。

 

私たちはイエスを信じたから、もう狭い門を通ったと安心しているかもしれません。

もう何も努力しないで、信仰のために戦うのをやめたいと思っているかもしれません。しかし、もう一つの狭い門があるのです。その門に入るためには賞を受けられるように走ることが必要です。肉の思いやこの世の考え方と戦う必要があります。主を待ち望み、聖霊の力を受けましょう。そしてイエスを目指して全力で走りましょう。