18.2.18.
アドナイ・ニシ : 我が旗なる主
出エジプト17:15-16
聖書の中で、神は「エル」(El)、「エロヒム」(Elohim)と呼ばれていますが、
他にも「アドナイ」(Adonai)と呼ばれています。これは「主」という意味です。
神の御名「ヤハウェ」(YHWH)は、「アドナイ」と置き換えて呼ばれるようになりました。
この「アドナイ」という言葉も、他の言葉と組み合わされて用いられています。
それらは、神がどのようなお方であるのか、神のご性質を示すものとなっています。
1.イスラエルに勝利を与えて下さった主
イスラエルの民はシナイ山北西部にある荒野の平野「レフィディム」(8)で宿営していました。
すると、イスラエルに対して、アマレク人が戦いを仕掛けて来ました。
アマレク人は、イスラエルの先祖であるヤコブの双子の兄エサウの子孫でした。
彼らは、自分たちの土地にやって来たイスラエルの民に対して敵意を抱き、
イスラエルを滅ぼそうとしたのです。
モーセは、ヨシュアに幾人かを連れて、アマレク人と戦うように命じました。
これは、イスラエルの民にとっては、他民族との初めての戦いであり、チャレンジでした。
なぜなら、彼らはエジプトで奴隷として仕えていたので、戦争を経験したことがなく、
戦う訓練も受けておらず、武器も十分ではなかったからです。
そこで、モーセは、アロンとフルを伴い、
戦いを見下ろすことの出来る「丘の頂」(9)に登りました。
そして、「神の杖を手に持って」(9)、その手を上げてイスラエルのために祈りました。
その杖は、神の様々な奇跡が表された杖であり、神の臨在、神の力を表すものでした。
その杖を持って、「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり」(11)ました。
しかし、モーセが疲れて、「手を降ろしているときは、アマレクが優勢に」(11)なりました。
イスラエルの勝利は、ヨシュアたちの力によったのではなく、
モーセの執り成しの祈りによっていたのです。
しかし、ついに「モーセの手が重く」(12)なり、上げていられなくなってしまいました。
そこで、アロンとフルは、「石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、
モーセはその上に腰掛け」(12)ました。
そして、「アロンとフルは、ひとりこちら側、ひとりはあちら側から、
モーセの手をささえた」ので、モーセの「手は日が沈むまで、しっかりそのまま」(12)でした。
その結果、「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破」(13)ることが出来ました。
その後、モーセは、「祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び」(15)ました。
「アドナイ・ニシ」とは、「主は我が旗」、「我が旗なる主」という意味です。
モーセは、勝利の栄光を、執り成し祈っていた自分自身にも、
戦い続けたヨシュアにも与えることなく、神に帰したのです。
イスラエルに勝利をもたらしたのは、神によるものであったからです。
2.私たちに勝利を与えて下さる主
「アドナイ・ニシ」の「旗」とは、「軍旗」のことであり、戦場で主将の所在を示す旗です。
この旗がはためいているということは、勝利を意味しています。
ですから、この旗は、戦いに勝利したことを示す旗、勝利の旗なのです。
モーセは、アマレクとの戦いにおいて、イスラエルの先頭を進まれ、敵と戦い、
勝利を与えて下さった神を「アドナイ・ニシ」と呼んだのです。
人間的な能力や努力が私たちを勝利へと導き、私たちに勝利を与えるのではあません。
神が私たちを勝利へと導き、私たちに勝利を与えて下さるのです。Cf. 出エジプト14:13-14。
では、イスラエルが戦った「アマレク」は、今日、何を意味しているのでしょうか。
一つは、私たちの人生で襲い掛かって来る様々な問題と言うことが出来るでしょう。
経済的問題、人間関係の問題、家庭の問題、仕事上の問題、健康上の問題など。
それだけではなく、「アマレク」とは、伝統的に「肉の欲」を表していると言われています。
ですから、イスラエルとアマレクとの戦いは、
敬虔に生きようとするクリスチャンたちが葛藤する肉の欲や悪との戦いを表しています。
私たちの内にあるあらゆる「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)、
「金銭欲」、「名声欲」との戦いは、非常に激しく、私たちの力では太刀打ちできません。
「アマレク」のヘブル語は、「奪い取る人々」という意味にも訳せる言葉です。
アマレク人がイスラエルを襲って、イスラエルの人々の命を奪おうとしたように、
私たちの内にある肉の欲は、私たちを悪や罪へと誘惑し、私たちから喜びと平安を奪い、
神の恵みと祝福を奪い、奉仕や祈りや伝道の力や時間や場所を奪おうとするのです。
私たちがアマレクすなわち肉の欲に勝つには、神の力と助けが必要です。
そのためには、モーセが手を上げて祈ったように、私たちも祈らなければなりません。
モーセは、「祭壇」を築いた時、「主の御座の上の手」と言いました(16)。
岩波書店訳では「手を、ヤハの王座の上に〔置け〕」と訳されています。
モーセが、主の御座に向かって手を上げて祈ったように、
私たちも、主の御座に向かって手を上げて祈ることが必要です。
主の臨在が臨む時、私たちに新たな力が与えられ、勝利へと導かれるのです。
モーセは、「主は代々にわたってアマレクと戦われる」(16)と言いましたが、
神は、今日も私たちと共に戦って下さるのです。Cf. イザヤ41:10-13。
私たちも、常に主に向かって祈りの手を上げて祈りましょう。
しかし、どんなに熱心に祈っていても、やがて疲れてしまい、
次第に祈りを止めてしまうことはないでしょうか。一人だけでは弱いものです。
アロンとフルがモーセを支えたように、互いに励まし合って祈ることが必要です。
また、モーセは偉大な指導者でしたが、やはり疲れることもあり、支えが必要でした。
私たちも、牧師や伝道師、リーダーのために祈らなければなりません。
また、イスラエルを滅ぼそうとするアマレクの攻撃は、今日の世界でも現実問題です。
そのスピリットは、時代を経て、今日、多くのイスラエルの敵へと伝わっていきました。
ですから、イスラエルのためにも執り成しの祈りをしなければならないのです。
今日も「主は代々にわたってアマレクと戦われる」(16)のです。
主は「アドナイ・ニシ」。私たちの先頭を行き、私たちのために戦い、
私たちを勝利に導き、私たちに勝利を与えて下さるお方です。詩篇20:4-8。