イエスにとどまれ

ヨハネ15:4-8

21.6.13.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木と枝」に例え、「わたしにとどまりなさい」と言われました。「イエスにとどまる」ということはどういうことでしょう。

1.イエスとの個人的な関係を持つ

イエスにとどまるとは、まずイエスとの個人的な関係を持つということです。それは、イエスを救い主として信じ受け入れるということです。聖書は、「人間は皆、罪人である」と教えています(ロマ3:10-12,23)。しかし、聖書が教えている罪とは、単に殺人や盗みなどの「犯罪」を犯すことではありません。聖書で「」という言葉は、ギリシヤ語で「ハマルティア」といいます。それは「的外れ」という意味で、「神から的を外している」ということです。ですから、聖書が教えている罪とは、「神から的を外していること」です。すなわち、この天地と私たちを造られた唯一真の「神を信じないこと」です。神から離れ、神に背を向け、神を無視して、自分中心に生きることが罪なのです。それは、神との関係が絶たれている状態です。

多くの人は「自分の知恵や力で生きていける。神など必要ない」と言うかもしれません。しかし、実際は、多くの人が孤独を感じ、虚しさを感じているのです。本当の満足、喜び、平安、希望を持つことが出来ないのです。そして、世の中の流れに流され、自分の欲望のままに生きているのです。そして、最終的に行き付く所は、死と永遠の滅びです。

神との関係が断ち切られている状態は、霊的に死んでいる状態です(エペ2:1)。そのような状態では、実を結ぶことは出来ません。そんな人間を罪と死と滅びから救うために、神は、御子イエス・キリストを送って下さいました。そして、イエスは、私たちの罪を負い、十字架にかかって死なれ、私たちの罪をご自分の死と共に葬り去って下さいました。このイエスを信じるなら、罪は赦されます。そして、神との関係が修復され、霊的に生き返らされるのです(エペ2:5)。イエスを信じ、イエスとの個人的な関係を持つことによって、「多くの実」を結ぶのです。

2.イエスとの親密な交わりを持つ

イエスにとどまるとは、日々、イエスとの親密な交わりを持つということです。イエスとの関係は、一回だけの体験で終わるのではなく、生涯続くものです。そして、イエスとの関係は、イエスとの親密な交わりによって、さらに深められ、強められ、私たちはイエスと一つとされていくのです。

イエスとの関係はあっても、イエスとの交わりが無くなってしまってはいないでしょうか。イエスとの交わりが失われてしまう原因の一つは、「忙しさ」です。日常生活の様々な事柄に忙しく、イエスとの時間を持つことが出来ないのです。イエスとの交わりが無くなってしまうと、霊的な力が失われます。そして、喜びが失われ、喜んで主に従い、仕えることが困難になります。そして、律法的な奉仕になったり、人を裁いたり、神に不平不満を言ったりします。

ルカ10:38-42。イエスがマルタとマリヤの家を訪問した時、マルタは、イエスをもてなすために、一生懸命動き回りました。そのため、マルタは、イエスとの交わりを持つことがありませんでした。やがて、マルタは喜びを失われ、不満が爆発してしまいました。そしてついに、何もしないマリヤを裁き、イエスに不平を言ってしまいました。マルタは、イエスと交わるよりも、もてなすことで忙しくなってしまったのです。イエスは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ10:42)と言われました。それは、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(ルカ10:39)、イエスとの交わりを持つことでした。

聖霊に満たされることによって、イエスとの交わりを持つことが出来ます(Ⅱコリ13:13)。「聖霊」は、私たちを「主イエス・キリスト」と「神」との「交わり」に結び付けるのです。聖霊に満たされ、霊的な命に満たされる時、「多くの実」を結ぶことが出来るのです。イエスとの親密な交わりを持つことによって、「多くの実」を結ぶ者となるのです。

 

イエスにとどまる時、「多くの実を結び」、神の栄光を現すことができるのです(ヨハ15:8)。私たちの内に結ばれる「実」の一つは、「御霊の実」(ガラ5:22-23)です。「実を結ぶ」ということは、「実行する」ということです。私たちがキリストに似た者へと変えられ、良い行いの実を結ぶことによって、神の栄光が現されるのです(マタ5:16)。Cf. エペ5:9コロ1:10。また、イエスは、私たちを選び、任命したのは、私たちが「行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」(ヨハ15:16)であると言われました。その「残る」「実」とは、救われた人のことです。Cf.Ⅰコリ9:1コロ1:6。多くの人々が救われることによって、主の「栄光」が現わされるのです。

 

枝が木に繋がっていれば、時が来ると自然に「実」を結ぶように、私たちもイエスにしっかり繋がっているなら、時が来たなら自然に「実」を結ぶのです。枝だけではどんなに頑張っても「実」を結ぶことが出来ないように、私たちもイエスから離れては、どんなに頑張っても「実」を結ぶことは出来ません。私たちが「多くの実」を結ぶためには、イエスに「とどまる」ことが必要です。イエスを信じて、イエスとの個人的な関係を持ちましょう。聖霊に満たされ、イエスとの親密な交わりを持ちましょう。それは、一言で言うと「イエスと一つとなる」ということです。日々、主との親しい交わりを持ち、主と一つとなっていきましょう。そして、「多くの実」を結び、主の「栄光」を現しましょう。

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