15.1.1.

イエス様にとどまり実を結ぶ

ヨハネ15:4-8

今年、多くの実を結ぶ年とならせていただきたいと心から願っています。
多くの実を結ぶことによって、神様の栄光を現すことが出来ます。ヨハネ15:8,16。
私たちが結ぶべき実とはどのようなものでしょう。
また、どのようにしたら実を結ぶ者となることが出来るのでしょう。

1.私たちが結ぶべき実

私たちが結ぶべき「実」にはどんなものがあるでしょう。
・「御霊の実」。ガラテヤ5:22,23
これらの九つの実は、私たちの内側に形造られるべきキリストの性質です。
私たちがキリストに似た者へと変えられていくということです。
御霊の実を結び、キリストに似た者となることによって神様の栄光が現されるのです。
・「良い行いの実」。コロサイ1:10
エペソ5:9では、「良い行い」に励むことを「光の実」とも言っています。
私たちが良い行いの実を結ぶことによって、神様の栄光が現されるのです。マタイ5:16

しかし、御言葉の文脈から、イエス様が意図しておられた「実」とは、
「働き(ミニストリー)の実」であると考えられます。
イエス様が弟子たちを弟子として選び、任命したのは、
「行って実を結び、その…実が残るため」でした。ヨハネ15:16
ここで語られている「実」とは、単にビジネスに成功してお金持ちになったとか、
努力が報われて何かを成し遂げたとか、幸せな家庭を築けたということではありません。
これらは一時的なもの、やがて消えてしまうもので、いつまでも残る実とは言えません。
いつまでも残る「実」とは、一人の人が救われて永遠のいのちを持つということです。
パウロはコリントのクリスチャンたちに
「あなたがたは、主にあって私の働きの実」であると言っています。Ⅰコリント9:1
ですから、イエス様が「行って実を結び」「その…実が残る」ようになると言われたことは、
私たちが人々にイエス様の証をしたり、福音を宣べ伝えることによって、
人々が救いに導かれるということなのです。
そして、更にそれらの人々が他の人々を導くことのできる弟子となることです。
このように、多くの弟子たちが生み出されることによって、神様の栄光が現されるのです。

2.イエス様との交わりにとどまる

イエス様にとどまることによって、実を結ぶ者となることが出来ます。ヨハネ15:4,5
イエス様にとどまるということについて、幾つか考えられます。
イエス様との個人的な関係を持つということ
それは、イエス様を救い主として信じ受け入れるということです。Cf.Ⅰヨハネ4:15。
イエス様の御言葉にとどまるということヨハネ15:7Ⅰヨハネ3:24
日々御言葉を読み、学び、心に留め、その御言葉を実行することが大切です。ヤコブ1:19
愛し合いなさいというイエス様の戒めを守ることヨハネ15:9,10。Cf.ヨハネ15:12,17
イエス様の愛にとどまるということは、人を愛するということによってなされるのです。
「キリストのからだ」である「教会」にとどまるということ
エペソ1:23には、「教会はキリストのからだ」であるとあります。Cf.Ⅰコリント12:27
私たちは「キリストのからだ」である教会と一体となるように召されたのです。Ⅰコリント12:13。

更にクリスチャンにとって大切なことは、イエス様との交わりにとどまるということです。
イエス様との交わりを持つことによって、イエス様にとどまることが出来ます。
私たちクリスチャンは立場上、イエス様にとどまっていることになっていますが、
実際にイエス様にとどまっていると言えるでしょうか。
イエス様との関係はあっても、イエス様との交わりがなくなってはいないでしょうか。
イエス様との交わりが少なくなってしまう原因の一つは、忙しさです。
日常生活の様々な事柄に心が囚われ、イエス様との時間を持つことが出来ないのです。

イエス様との霊的な交わりがなくなってしまうと、
心から喜びが失われ、喜んで主に従い、仕えることが困難になります。
そして、律法的な奉仕になったり、人を裁いたり、不平や不満が出て来ます。
さらに、それは人間関係にも影響をもたらし、交わりが破壊されてしまうこともあります。
ルカ10:38-42。マルタは奉仕をすることだけに心がいっぱいでした。
ですから、マルタの心からは喜びが失われ、不満が爆発してしまいました。
そして、ついにマルタはマリヤを裁き、イエス様に不平を言ってしまったのです。
ルカ15:25-30。放蕩息子の兄も忠実に父に従い仕えていたでしょうが、
それは律法的な仕え方で、心には喜びもなく、帰って来た弟に対して非常に批判的でした。

また、私たちがイエス様にとどまり、イエス様と共に働くのでなければ、
人間的な知恵や力だけに頼って働きをしても、効果的な働きをすることも出来ません。
主が共におられ、主が共に働き、主が祝福して下さるのでなければ、
どんな人間的な努力も無駄になってしまうのです。詩篇127:1,2
しかし、私たちが主にとどまり、主との交わりを常に保ち、主と共に働きをするなら、
私たちが考えていた以上の成果が得られるのです。

私たちは日々忙しい生活を送っていますが、
忙しいからこそ、静まって主との交わりを持つことが必要なのです。詩篇37:7
祈りや賛美をもって、主を求め、主の臨在に入っていくのです。
主の臨在の中で、主からの語りかけを聞き、慰められ、励まされ、信仰が強められます。
また、悔い改めに導かれたり、心がきよめられたり、人格も整えられます。
イエス様との交わりによって、私たちの霊性、内なる人が養われることによって、
より多くの実を結ぶ者になっていくのです。

イエス様は私たちが多くの実を結ぶことを期待しておられます。Cf. マタイ21:18,19
イエス様にとどまり、多くの実を結び、神様の栄光を現させていただきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師