20.10.18.
アブラハムの信仰の旅は、子孫が与えられるという主の約束の実現を待ち望む歩みでした。そして、この21章で、ついに主の約束が実現することになります。
1.主は約束通りイサクを与えられた : 主は語られたことを必ず実現される
アブラハムがカナンの地にやって来てからもう25年が経ち(12:4)、アブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。その間、主は、アブラハムとサラの間に子供が与えられると繰り返し語って来られました。彼らは主の約束を信じて、その実現を待ち続けしたが、何も起こりませんでした。
しかし、1節にあるように、「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった」のです。すなわち、「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」(2)のです。ここには、「主は、約束されたとおり」、「仰せられたとおりに主はサラになさった」、「神がアブラハムに言われたその時期に」とあり、主が語られた通りのことを実現されたことが強調して書かれています。主は、語られたことを、約束通り、実現されたのです。
特に「サラを顧みて」の「顧みる」には、「訪れる」という意味があります。かつて、三人の旅人がアブラハムの元に来た時、主はアブラハムに言われました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」(18:10) その言葉通りに、主がサラに訪れ、子供を生ませて下さったのです。
なぜ、約束の実現に25年もかかったのでしょうか。それは、主の栄光が現わされるためでした。もし、アブラハムが信じた後に直ぐに子供が与えられたとしたら、アブラハムの信仰が賞賛されることになったでしょう。しかし、アブラハムは、主の約束を疑ったり、不信仰になったり、自分の方法で約束を実現させようとしたり、主に対して不誠実で、不忠実でした。ですから、イサクは、アブラハムの信仰に対する報いとして与えられたのではありません。主からの一方的な働きかけによって、イサクが与えられたのです。すなわち、イサクが与えられたのは、アブラハムの信仰の力だったのではなく、主の真実さ、忠実さのゆえだったのです。主は真実な方、忠実な方であり、語られたことを必ず実現されるのです(イザ55:10-11)。
2.主はご計画通りイサクとイシュマエルを分けられた : 主はご計画を必ず実行される
「アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催し」(8)ました。「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子(イシュマエル)が、自分の子イサクをからかっているのを」(9)見ました。「からかっている」という言葉は、「笑っている」とも訳される言葉です。楽しい宴会の最中、イシュマエルとイサクが兄弟同士ふざけて遊んでいたのでしょう。
この時、二人の体の大きさや力の差は、大きなものでした。サラは、二人の姿を見て、将来の二人のことを思い描いたのかもしれません。「イシュマエルもアブラハムの子であり、しかも長男である。将来、アブラハムの跡取りを決める時に、年上で、体も大きく、力のあるイシュマエルが、年下で、体も小さく、力のないイサクを押しのけてしまうかもしれない。イシュマエルがアブラハムの跡取りとなり、財産を奪ってしまうかもしれない。」そこで、サラはアブラハムに言いました。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」(10)
アブラハムは、イシュマエルも息子として愛していたので、「非常に悩」(11)みました。その時、主は、アブラハムに「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ」(12)と語られました。サラの言葉は、かなり厳しく、サラは、血も涙もない冷たい人間のように見えますが、主は、ご自身の計画が実行されるために、サラの言葉を用いられたのです。主は、サラが生むイサクがアブラハムの跡取りとなり、イサクと彼の子孫と契約を結び、アブラハムの祝福を受け継がせる、と既に語っておられました(17:16,19,21)。アブラハムとイサクの子孫によって、地上の全ての民が祝福されるのです。アブラハムの契約と祝福が確実にイサクに引き継がれることが、主の御心であったのです。
「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え…その子とともに彼女を送り出し」(14)ました。ハガルとイシュマエルは、「ベエル・シェバの荒野」(14)をさ迷ってしまいました。やがて「皮袋の水が尽き」(15)、生きる望みが絶たれ、ハガルは息子を「灌木の下に投げ出し」(15)、離れた所で「声をあげて泣」(16)きました。その時、主はハガルに「ハガルよ。…恐れてはいけない。」(17) 「…わたしはあの子を大いなる国民とする…」(18)と語られました。かつて、主は、イシュマエルについても、その子孫が非常に増やされ(16:10)、「大いなる国民」(17:21)とすると約束しておられました。主は、ハガルとイシュマエルに対するご計画も導いておられたのです。主は、様々な状況の中でも、ご自身のご計画を必ず実行されるのです(イザ14:24)。
主は、私たちに信仰を求めておられ、私たちの信仰を喜ばれます。しかし、私たちの信仰や情熱だけで、御業が現されるのではあません。私たちが信仰や情熱を持つことは大切なことですが、さらに大切なことは、主ご自身に働いていただくということです。主が働かれることを信じて、主に委ねることが大切です(詩37:5)。主が語られたことは、「その時が来れば実現します」(ルカ1:20)。すぐに祈りが答えられないからと言って、諦めてしまうのではなく、主が働かれることを信じて、全てを主に委ねてゆきましょう。
Filed under: アブラハムの信仰の旅 • 伊藤正登牧師