20.11.1.

22章には、アブラハムが最大の試練、信仰のチャレンジを受けたことが記されています。

1.アブラハムに与えられた試練(信仰のチャレンジ)

1節の「これらの出来事の後」とは、アブラハムがカルデヤのウルを出発してから(11章)、イサクが与えられる(21章)までの25年間の全ての出来事と考えられます。アブラハムは、様々な試練を通り、ついに約束の子イサクが与えられました。また、カナン人との間に平和条約も結ばれ、平安な生活を送ることが出来ました。全てが順調にいっていて、あらゆる点で満ち足りていた時でした。そのような時に、「神はアブラハムを試練に会わせられた」のです。

主は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(2)と語られました。「全焼のいけにえ」とは、いけにえの動物を殺し、焼き尽くし、主にささげるとことです。主は、アブラハムに、最愛の一人息子イサクを殺し、焼き尽くせと命じられたのです。イサクは、アブラハムが年老いてからやっと与えられたか大切な一人息子です。また、主は、イサクを通して、数え切れないほどの子孫を与えると約束されました。もし、イサクが死んでしまったら、主の約束が実現されなくなってしまいます。

なぜ、主は、イサクをいけにえとしてささげるよう命じられたのでしょうか。イサクは、アブラハムの最愛の一人息子であり、自分の全てであり、宝でした。アブラハムは、主よりもイサクを愛するようになっていたのかもしれません。そこで、主は、アブラハムがどれだけ主を愛し、主に信頼し従うかを試されたのです。主が求めていたのはイサクではなく、アブラハムの主に対する愛と信仰でした。主は、私たちにも主に対する愛と信仰を問いかけておられます(マタ10:37-38)。

2.すぐに主の御声に従ったアブラハム

アブラハムは、「翌朝早く」起きると、すぐに主の御声に従いました(3)。アブラハムは、イサクを連れて「神がお告げになった場所」「モリヤ」に向かいました。ここには、アブラハムの悩み苦しむ姿は、一切語られていません。アブラハムは、主に「なぜですか」と問い掛けたり、「それは嫌です」と拒んだり、「ちょっと待って下さい。考えさせて下さい」と躊躇ったりしませんでした。また、「後で、状況が整ってからにして下さい」と先延ばしにしたり、「ささげますが、全焼のいけにえにはしません」と部分的な従い方はしませんでした。アブラハムは、何の疑いも、躊躇もなく、直ぐに主の御声に従いました。

私たちは、主の御声に「はい、主よ」と答え、従っていますか。それとも、主の御声を無視していませんか。色々と理屈を言って拒んでいませんか。また、色々と言い訳を言って従うことを先延ばしにしてはいませんか。主の言葉は、時として理解出来なかったり、納得出来なかったりすることがあります。しかし、たとえそうでも、主の御声に従うのです。聞き従うことによって後で、また天国に行ってから分かることもあります。

主は、私たちの考えや理解をはるかに超えたお方であり、私たちの考えや理解をはるかに超えたことをするお方です。私たちの限られた考えや理解によって、主の御業や働きを制限してはなりません。たとえ、主の命令が、理解出来ないものであっても、黙々と主の言葉に従うのです。

3.アブラハムの信仰

① 主は取り戻させて下さると信じた

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見え」(4)ました。アブラハムは「若い者たち」(5)に「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」(5)と言いました。主の言葉に従えば、イサクは殺して、燃やし尽くしてしまうわけですから、アブラハムとイサクが一緒に「戻って来る」ことは不可能です。しかし、アブラハムは、必ずイサクと一緒「戻って来る」と信じていたのです。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」(ヘブ11:19) アブラハムは、たとえイサクを焼き尽くして灰にしても、主は、イサクを「死者の中からよみがえらせることもできる」と信じたのです。ですから、アブラハムは、再びイサクと一緒に「戻って来る」と明確に宣言したのです。主の御言葉に従うことによって、犠牲を伴うこともあります。しかし、主は必ずそれを取り戻させて下さるのです(マタ16:25マコ10:29-30)。

② 主は備えて下さると信じた

イサクは、アブラハムに「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」(7)と尋ねました。イサクの鋭い質問に対し、アブラハムは、戸惑うことなく、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(8)と悠々と答えました。この「備えてくださる」という言葉の直訳は「見つける」です。また、後にアブラハムがその場所を「アドナイ・イルエ」と名づけましたが、この「イルエ」には「見える」という動詞であり、神に使われる場合は、「前もって見る」という意味になります。私たちは、将来のことは分かりませんが、主は、先のことまで前もって見ておられ、そこに必要なものを予め備えて下さるのです(ピリ4:19)。人間の視点は低く、一時的であり、目の前の現実や常識に縛られてしまいますが、主の視点は高く、永遠の視野をもって物事を見、現実や常識を超えています。

 

アブラハムは、「神がお告げになった場所」「モリヤ」に着くと、「祭壇」(9)を築きました。アブラハムが刀を振り上げた瞬間、「御使い」がアブラハムを止めさせました(10)。アブラハムの主に対する愛と信仰が試され、本物であることが証明されたのです。主は、アブラハムに雄羊を備え(13)、アブラハムに最愛の一人息子を返されたのです。そして、主は、アブラハムの信仰を喜ばれ、「祝福」をお与えになりました(16-18)。信仰の父アブラハムのように、信仰をもって、主に従う者となりましょう。

Filed under: アブラハムの信仰の旅伊藤正登牧師