20.8.16.

主は、アブラムに子孫を与えると約束されましたが、それはまだ実現していませんでした。アブラムとサライは、この現実にどう対処したのでしょうか。

1.人間的な方法に頼ったアブラム

サライはアブラムに「は私が子どもを産めないようにしておられます」(2)と言いました。サライは、主が彼女の出産を妨害していると考えたのです。そして、もう主の約束の実現を待つことが出来なくなり、アブラムに「どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」(2)と提案しました。当時、妻に子どもが生まれない場合、妻の女奴隷が夫との間に子どもを産み、その子を法的に夫婦の子とすることが一般に行われていました。

アブラムは、「サライの言うことを聞き入れ」(2)てしまいました。そこで、サライは、「女奴隷のエジプト人ハガルを…夫アブラムに妻として与え」(3)ました。サライの提案は、主の約束を実現させるために、現実的な方法に思えたかもしれません。アブラムとサライは、主の約束の実現を信じていましたが、実現の方法を主に任せることが出来なかったのです。彼らは、主の約束を人間的な方法で、自分たちの力で実現しようとしたのです。

私たちも、主の約束の実現を信じていても、なかなか実現しないと、アブラムとサライの様に、人間的な方法で解決しようとしてしまうことはないでしょうか。主には主の考えや方法があり、私たちの考えや方法とは違うことがあります(イザ55:8-9)。主は、私たちのための計画を持っておられ、時が来たら、必ず実現して下さいます。しかし、多くの場合、その実現がいつ、どのようになるかは示されません。私たちは、ただその時を待たなければならないのです(ハバ2:3ヘブ10:36-39)。

2.新たな問題に巻き込まれたアブラム

アブラムとサライの計画は成功し、ハガルはみごもりました。全てが上手くいったように見えましたが、新たな問題が起こりました。ハガルは、アブラムのために妊娠したので、サライよりも優位な立場になり、そのためハガルは高ぶり、「自分の女主人を見下げるように」(4)なりました。

サライは、ハガルの態度に怒り、「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。…が、私とあなたの間をおさばきになりますように」(5)とアブラムに訴えました。サライは、自分からハガルによって子どもが得られるようにして欲しいと言い出し、アブラムにハガルを与えたのに、ハガルの横柄な態度をアブラムのせいにしています。

しかし、アブラムは「あなたの好きなようにしなさい」(6)と無責任な態度を取りました。アブラムは家長として家庭問題を解決に導かなければなりませんでしたが、家長としての責任を放棄し、問題をサライに丸投げし、問題から逃げてしまいました。

このように、16章には、人間の身勝手さを見ることが出来ます。

・ハガルは、子どもができた途端に、態度を変えて、主人を見下げました。

・サライは、自分の思い通りにしようとし、上手くいかないと人のせいにしました。

・アブラムは、問題に真剣に向き合って責任を取ろうとせず、逃げてばかりいました。

こうして、アブラムの家庭に争いが生じるようになってしまいました。

人間的な方法で、問題を解決しようとしても、返って新たな問題が起こるのです。人間的な方法で、自分が望んでいるものをすぐに手に入れられるように見えても、自分の望んでいない結果となり、結局は何も得られないのです。人間的な方法で、全てが上手くいったように見えても、何も成し得ないのです(詩127:1)。

3.主の憐れみによる介入を受けたアブラム

サライは、ハガルを「いじめ」(6)るようになり、ハガルは逃げ出してしまいました。ハガルは「荒野」に行き、その「シュルへの道にある泉のほとり」まで行きました(7)。「シュル」とは「壁」という意味で、エジプトとの境界、国境地帯にありました。すると「の使い」がハガルに「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(8)と語りました。ハガルは「私の女主人サライのところから逃げているところです」(8)と答えました。しかし、この問いかけは、なぜハガルがサライの元から逃げなくてはならなくなったか、その原因をハガルに考えさせ、気付かせ、彼女を悔い改めに導くためのものでした。

その原因は、ハガルが妊娠した途端に、サライを見下げたことにありました。そこで、御使いは、ハガルに言いました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9) これは、ハガルに方向転換、すなわち悔い改めを促す言葉でした。さらに御使いは、ハガルに「男の子」が産まれ、その「子孫」も「大いに」増やされ、「数えきれないほどになる」とも約束しました(10)。そして、その「男の子」に「イシュマエル」と名づけるようにと言われました(11)。「イシュマエル」とは、「神は聞かれる」という意味です。またハガルは、主を「あなたはエル・ロイ」(13)とたたえました。「エル・ロイ」とは、「ご覧になる神」という意味です。主は、ハガルの苦しみや悩みを聞いておられ、見守っていて下さっていたのです。この後、ハガルは悔い改め、サライの元で「身を低く」して仕えたことでしょう。

やがて「ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは…イシュマエルと名づけた。」(15) こうして、アブラム家の問題はおさまり、平和を取り戻しました。主は、私たちの愚かさや弱さによって引き起こした問題でさえも、憐れみと恵みによって、解決へと導いて下さるのです(詩103:8-13)。

 

自分勝手に人間的な方法で、主の約束を実現させようとするのではなく、主を信頼し、主の導きに従うことが一番良いのです。時々、自分の弱さや愚かさによって、不信仰になり、御心に反してしまい、自分が蒔いた種を刈り取ることになり、様々な問題の中で、苦しむことがあります。しかし、主は、私たちを決して見捨てることなく、憐れみ、私たちの悩みや苦しみに耳を傾け、見守り、解決へと導いて下さるのです。全てを主の時と方法に委ね、主が働いて下さることを忍耐して待ちましょう。

Filed under: アブラハムの信仰の旅伊藤正登牧師