16.4.3.
エマオへの道の体験
ルカ24:13-35
イエス様が復活された日、クレオパ(18)ともう一人の弟子が、
エルサレムから11km離れたエマオへと向かって暗い気持ちで歩いていました。
しかし、その日の夜には、その同じ道を大きな喜びと希望をもって戻って行ったのです。
このエマオへの道中、彼らに何が起こったのでしょう。
1.霊的な目が閉ざされていた二人の弟子
二人はエルサレムで起こった出来事について、
話し合ったり、論じ合ったりしていました。19~24。
それは、イエス様の十字架の死と空になった墓についてでした。
彼らはイエス様の死をとても悲しみ、また失望していました。
また、イエス様の体がなくなっていたという報告を聞いて不思議に思い、
イエス様がよみがえられたと聞いても信じられなかったのではないでしょうか。
そこにイエス様が近付いて来て、彼らと共に道を歩まれ、彼らに語りかけしまた。
しかし、彼らにはそれがイエス様だとは全く分かりませんでした。
16節には「ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとわからなかった」とあります。
彼らは目が見えていても、霊的な目が閉ざされていたのです。Cf.イザヤ43:8。エレミヤ5:21。
実は、この二人の弟子は、イエス様を神の御子キリストとしてではなく、
「行いにもことばにも力のある預言者」(19)としか考えていませんでした。
彼らは、霊的な目が閉ざされていたために、イエス様が神の御子、救い主であることや、
イエス様の十字架の死と復活についても理解出来ていなかったのです。
彼らは、自分たちが見たことや聞いたことを、
人間的な知識や経験や常識だけで理解するために、話し合ったり、論じ合っていたのです。
私たちも、霊的な目が閉ざされ、霊的に盲目になっていると、
神様のことも、御言葉も、霊的真理についても分からないのです。
ただ話し合ったり、論じ合ったりするだけで、霊的な無知の暗闇の中を彷徨うだけです。
私たちは霊的に目が開かれ見えるようになっているでしょうか。
2.御言葉の解き明かしによって心が燃やされる
イエス様は、二人の弟子の霊的な目が閉ざされていることを嘆いて(25)、
旧約聖書全体から、キリストの受難や復活について説明されました。(26,27)
実は、旧約聖書に書かれていることは、キリストについてなのです。ヨハネ5:39。
彼らは、十字架にかかられ死なれたイエス様が、旧約聖書で預言されたキリストであり、
イエス様は預言の通りに復活されたのだということが分かって来ました。
彼らは、この真理が分かって来ると、次第に信仰が燃やされて来ました。(32)
私たちが神様について、御言葉について、霊的真理について、
また自分が置かれている状況について信仰的に理解するためには、
御言葉の解き明かしが必要です。詩篇119:130。
使徒8:1-39。エチオピアの宦官はイザヤ書を読んでいましたが、
その内容や意味を全く理解出来ませんでした。
そこで、ピリポは「この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」(35)のです。
その結果、エチオピアの宦官は信仰を持つようになり、水のバプテスマを受けました。
私たちは、御言葉によって信仰を持つことが出来るようになります。ローマ10:17。
私たちも個人的に聖書を読み、学ぶことが必要ですが、
礼拝のメッセージや聖書の学び会等で、御言葉の解き明かしを教えられることも必要です。
3.主との交わりによって霊的な目が開かれる
エマオに着くと、イエス様は、二人の弟子と共に家に入り、「ともに食卓に着かれ」ました。
そして、イエス様が「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡され」(30)ると、
「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(31)のです。
ここでイエス様がパンを手渡された時に、彼らの霊的な目が開かれたということは、
イエス様との交わりの中で、イエス様が分かるようになったということです。
霊的に目が開かれるためには、主との交わりが必要なのです。
今日、主との交わりは聖霊によって持つことが出来ます。Cf.Ⅱコリント13:13。
私たちには「もうひとりの助け主」である「真理の御霊」が遣わされています(ヨハネ14:16,17)。
聖霊は私たちに「すべてのことを教え」、
イエス様が語られた「すべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。
また、「真理の御霊」である聖霊は私たちを「すべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)。
聖霊との交わりの中で、霊的な目か開かれていくのです。
パウロは、ガマリエルの下で聖書を学び、熱心に律法を守り行うパリサイ人でした。
しかし、パウロはイエス様が聖書で預言されたキリストだと全く分かっていませんでした。
ある時、パウロがクリスチャンたちを捕えるためにダマスコに行く途中、
突然「天からの光」(使徒9:3)に照らされて、目が見えなくなってしまいました。
この光は、主の臨在を現す栄光の光の中で、その中でパウロはイエス様の声を聞きました。
パウロは、主の臨在の中で、霊的な目が開かれて、イエス様のことが分かったのです。
霊的な事柄については、聖霊によってしか理解できないのです。Ⅰコリント2:10,11,14。
御霊によって、霊的な目が開かれ、霊的な事柄が分かるようになるのです。エペソ1:17-19。
ラオデキヤの教会は物質的には恵まれていましたが、霊的には「盲目」でした。黙示3:17。
ラオデキヤの教会にイエス様は「わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、
彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしともに食事をする」(20)と言われました。
イエス様との交わりによって霊的な目が開かれ、見えるようになるためです。
二人の弟子は、「まだ先へ行きそうなご様子」(28)のイエス様に、
「いっしょにお泊りください」と「無理に」願いました。(29)
そこで、イエス様は「いっしょに泊まるために」家の中へと入られました。(29)
今日も、私たちが主を呼び求める時、主は私たちのところにも来て下さるのです。
私たちも「エマオへの道」の体験をさせていただこうではありませんか。
御言葉の解き明かしによって信仰を燃やされ、
主との交わりによって霊的な目を開いていただきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師