キリストの体なる教会

エペソ1:23、Ⅰコリント12:27

21.6.6.

パウロは、教会を「キリストのからだ」に例えています。「キリストの体なる教会」について学びましょう。

1.教会は神によって召し集められた者たち

「教会」という言葉は、ギリシヤ語では「エクレシア」と言います。「エクレシア」とは「呼び集める」、「召集する」という語の派生語です。ですから、「教会」とは「神に召し集められた者たち」のことです。神は、私たち一人一人をキリストによる救いに召して下さっただけではなく、私たち一人一人を教会にも召して下さったのです(コロ3:15)。Cf. Ⅰコリ12:13エペ3:6。私たちは、キリストの体である教会に「召されて一体となった」のです。

パウロが教会をキリストの体であると悟ったのは、キリストとの出会いの時でした。パウロが迫害していたのはイエス自身ではなく教会でしたが、教会を迫害することは、イエスを迫害することであることを知ったのです(使9:4-5)。こうしてパウロは、教会がこの地上におけるキリストの現れであることを悟りました。

パウロは「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(エペ4:1)と言っています。この「召し」とは、「キリストによる救い」と理解することも出来ます。しかし、文脈から考えるなら、この「召し」とは、教会に対する召しです。「その召しにふさわしく」歩むということは、「御霊の一致を熱心に保」(エペ4:3)つことです。すなわち、教会に召された者として、一つとなるように努力しなさいということです。

一人一人が教会に導かれたきっかけは様々です。しかし、それら一つ一つの背後には、神の導きがあったのです。神は私たち一人一人をこの教会に召し集めて下さいました。ですから、私たちは、自分が導かれ、置かれた教会への召しを確信しなければなりません。

2.キリストの体の器官として組み合わされる

私たちは、キリストの体である教会を構成する様々な器官とされています(Ⅰコリ12:22)。体に様々な器官があっても体は一つであるのと同じように、キリストの体である教会にも様々な人たちがいても一つなのです(Ⅰコリ12:12,20)。聖書は、キリストの体である教会の各器官である一人一人が、なくてはならない大切な存在であると教えています (Ⅰコリ12:15-17,21)。

神との関係は重んじるけれども、教会との関係を軽んじる人たちもいます。その人たちは、神との個人的な関係だけを強調します(個人主義的信仰)。彼らは、神との個人的な繋がりをしっかりと持ってさえいれば、教会は必要ではなく、教会に属さなくても信仰生活を送ることが出来ると考えています。最近は、教会に行かなくても、自分一人で家で聖書を読んだり、祈ったり、賛美したり、自分一人で家でインターネット礼拝に参加していますと言う人もいます。

自分と神との関係さえしっかりしていれば、教会はいらないという考えは、キリストの体として一体になるように召し集められたという御言葉に反しています。また聖書は、「いっしょに集まることをやめたりしないで」、再臨の日が近いことを覚え、益々一緒に集まるよう励まし合うようにと教えています(ヘブ10:25)。キリストの体なる教会に所属するということは、神の御言葉に従うことです。最終的に、私たちが問われていることは、御言葉に従うか、自分の考えに従うかです。

私たちは、キリストの体を構成する器官として、キリストの体である教会にしっかりと組み合わされなければなりません(エペ4:14)。

3.頭なるキリストの御心を行う

私たちはキリストの体を構成する器官であり、キリストはご自身の体である「教会のかしら」(エペ5:23コロ1:18)です。ですから、キリストの体である私たち教会は、教会の頭であるキリストの御心を行わなければなりません。

教会の頭であるキリストが願っておられることとは福音宣教です。イエスは弟子たちに福音を宣べ伝えるようにと命じられました(マコ16:15)。イエスは、私たちをご自分の元に来るように召して下さっただけではなく、ご自分のために出て行くよう召して下さったのです。教会は、召し集められた者たちのことですが、遣わされる者たちでもあるのです。

体の器官に夫々の役割と働きがあるように、私たち一人一人にもキリストの体なる教会で果たすべき役割と働きがあります。その役割と働きが果たせるように、各人に特別な能力、賜物が与えられています。福音宣教のために、お互いにその賜物を用いていくのです(Ⅰペテ4:10)。一人一人の存在は、福音宣教のために、教会にとって欠かせないものです。共に召された兄弟姉妹たちと心と力を合わせて、福音宣教を進めなくてはなりません。

福音宣教に消極的であったり、無関心であることはないでしょうか。自分の問題、自分の必要、自分の生活、自分の幸せが優先となってはいないでしょうか。体の中で一つの器官でも機能しなくなったら病気です。今日、多くの教会が弱く、その使命を果たすことが出来ず、死にかかっています。それは、その教会に連なるクリスチャンたちが仕えることを拒んでいるからです。キリストの体として召し集められた私たちは、福音宣教のために働くキリストの手足であることを忘れてはなりません。

 

もし個人的にイエスとのつながりを持っているのなら、その人はイエスご自身の体である教会にもつながっているはずなのです。イエスを愛する者は、イエスが建て(マタ16:18)、愛しておられる教会(エペ5:25)をも愛するはずです(Ⅰヨハ4:20-21)。

私たち一人一人は、キリストの体である教会と一体となるように召し集められました。ですから、キリストの体なる教会にしっかりと組み合わされなくてはなりません。与えられた賜物をもって互いに仕え合い、福音宣教を推し進めましょう。