ベツレヘム・エフラテ
ミカ5:2

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クリスマスは、神が人類を救うため、ご自分のひとり子をこの世界に送ってくださった日です。
実際の日にちはわかりませんが、クリスマスに神の御子が来てくださったことを祝います。
ミカの預言から、神がどのような人を用いられるかということを学びましょう。
1.取るに足りない者のところに来られる神
主は預言者ミカを通して語られました。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者がでる。・・・」(ミカ5:2)。
このベツレヘムは「パンの家」という意味があります。
パンを食べるといのちが与えられるように、イエスを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。エフラテの語源は「エフェル」です。「灰」、「ちり」、「無に等しいもの」という意味です。
これほど小さな町でしたが、救い主はこのベツレヘム・エフラテにお生まれになられたのです。
イスラエルでは、町にはその土地を割り当てられた氏族がいます。
だから町は人を表すものでした。
ベツレヘムは小さな町、価値のない町でしたが、神が来られたのです。
神はこの世の小さい存在、弱い存在、取るに足りない者たちを、決して忘れたりはしません(Ⅰコリント1:27-28)。
このベツレヘムはダビデの出身地です。ダビデがイスラエルを治める支配者となりました。
ですから、ダビデの選びを考えると、この御言葉の意味がよくわかります。
ダビデが王に選ばれたのは、彼が初めから偉大な器だったからではありません。
彼は兄たちのように戦争に参加することすらできない羊飼いの少年でした。
しかし神が彼を選ばれたのです(Ⅰサムエル16:11-12)。
イエスを信じる者たちも、神が福音を聞くチャンスを与えてくださったからです。
イエスを信じたのも自分の力ではなく、神の恵みです。
つまり、私たちのところに、神が来られ、救いの手を差し伸べてくださったのです。
これは奇跡的なことなのです。
主が私たちのところに来られたのは、私たちが偉大であったからではありません。
かえって、私たちはこの世の取るに足りない者でした。
ただ、神の一方的な恵みにより、私たちのこの世界に神が来てくださいました。
そして私たちを救ってくださったのです(エペソ2:8)。神の恵みに感謝しましょう。
2.弱い者も主によってなんでもできるようになる
神は、この世の小さい者、弱い者、貧しい者を選ばれます(マタイ5:3、ヤコブ4:6)。
しかし、このような弱い者に何ができるのでしょうか。
神は、この世の弱い者を用いて、偉大な御業をなされます。
神の力は弱い者の弱さのうちに、完全に現れるのです(Ⅱコリント12:9)。
ダビデも神に選ばれ、油注がれたとき、神の霊が彼の上に注がれました(Ⅰサムエル16:13)。彼は聖霊に満たされ、猛獣を打ち殺しました(Ⅰサムエル17:34-35)。
竪琴を弾いて悪霊を追い払ったり(Ⅰサムエル16:23)、
巨人ゴリヤテを石投げ器で打ち殺してしまいました。
私たちに主の霊が注がれるとき、私たちは力を受けます。
弱い私たちが強くされます。そして主の御業に用いられるようになるのです(使徒1:8)。
私たちは、自分が弱いからといって、何もできないと嘆いてはいけません。
聖霊を受け、満たされるとき、私たちを強くしてくださる主によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:13)。
このような、主によってなんでもできるという信仰をもって歩みましょう。
エフラテの語源は「アフェル」でもあります。意味は、「ティアラ」です。
この世の取るに足りない私たちも、主に用いていただくなら、主の恵みにより喜びとなります。私たちも主の輝きを反映させて輝く者となれるのです。
死に至るまで忠実に歩むなら、いのちの冠、ティアラが与えられるのです(黙示録2:10d)。
神は小さい町ベツレヘムを選ばれました。神は取るに足りないような私たちを覚えておられ、来てくださり、用いてくださいます。主に用いられるなら、主の御業を行うことができるのです。そのとき私たちの人生は主の栄光を反映させて輝くのです。