19.11.17.
イエスが「食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った
石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注」(3)ぎました。ヨハ12:3では、その女が「マリヤ」であったと記されています。マリヤが行った素晴らしい模範から、主にささげることについて学びましょう。
1.最高のものをささげる
「ナルド油」とは、ヒマラヤ産の植物から抽出される香油で、「非常に高価」なものでした。ヨハネによると、マリヤがイエスに注いだ香油は、「三百グラム」(ヨハ12:3)あり、「三百デナリ以上に売れ」るものでした。「1デナリ」は、労働者の一日分の賃金に相当する金額でしたから、「三百デナリ」は、3百日分、約10か月分の賃金になります。それほど「非常に高価」な香油を、一瞬のうちに全てをイエスに注いでしまうことは、弟子たちにとっては、全く無駄なことに思えたのです。彼らは、それをもっと価値のある事に使うべきだと思ったのです。しかし、マリヤは、価値のない物やどうでもいい物ではなく、最も良い物をイエスにささげたかったのです。なぜなら、彼女にとって、イエスは、最高のささげ物を受けるべき方だったからです。
どのようなささげ物をするかによって、主に対する私たちの思いや信仰が表されます。主へのささげ物は、価値のない物やどうでもいいような物ではなく、「最上のもの」であることが求められています(出エ23:19)。主に対する、私たちのささげものはどうでしょうか。奉仕はどのようなものでしょうか。勿論、全財産をささげるとか、完璧に仕えるということは難しいです。しかし、大切なことは、自分の出来る最善、精一杯をささげるということです。イエスは、「この女は、自分にできることをしたのです」(8)と言われました。私たちも、「自分にできる」最高のものを主にささげましょう。
2.惜しみなくささげる
「純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼ」を割るということは大胆な行動です。割ってしまった「石膏のつぼ」は、もう元に戻ることはありません。それは、マリヤが全てをささげてしまったということを意味しています。マリヤは「純粋で、非常に高価なナルド油」を惜しみながら、少しだけ注いだのではなく、大胆に「石膏のつぼ」を割って、香油の全てをイエス様の頭と足に注いだのです。
これを見ていた「何人かの者が憤慨して」、マリヤを「きびしく責め」ました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(4) マタイによると、この言葉を言ったのは「弟子たち」(マタ26:8)でした。弟子たちは、マリヤが惜しみなく注いだ「ナルド油」をもったいないと思いました。また、ヨハネは、イエスを裏切った「イスカリオテ・ユダ」の言葉を記しています。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハ12:5)しかし、ユダは、「貧しい人々のことを心にかけていたからではなく」(ヨハ12:6)、単なる金銭欲からそう言ったのです。ユダは、「盗人」で、「収められていたものを、いつも盗んでいた」(ヨハ12:6)のです。ユダは、その香油の代金を自分が欲しいと思ったのです。
私たちも、弟子たちやユダのように、主へのささげ物を惜しんではいないでしょうか。マリヤのように、惜しむことなく心から喜んでささげることが大切です(出エ25:2、35:5,21-22,29、Ⅱコリント8:2-4、9:7)。
3.機会をとらえてささげる
イエスは、マリヤがしたことを「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」(6)と言いました。そして、イエスは、マリヤの行為がイエスの埋葬の用意であったと言われました(7-8)。マリヤがイエスの死をどの程度理解していたかは分かりません。しかし、結果的にマリヤの行為は、イエスの死を暗示するものとなり、図らずもイエスの葬りのための準備となったのです。イエスは、決して「貧しい人たち」のことを排除してしまっているのではありません。ただ、彼らに施しをしようと思えば、これからいつでも出来ます。しかし、イエスがこの世を去る時が近づいていたのです。この数日後、イエスは捕らえられ、十字架にかかられ、死ななければなりませんでした。ですから、イエスへの愛を表すことが出来るのは、この時しかなかったのです。もし、マリヤがこの機会を逃してしまったなら、彼女は永遠にイエスに対してこの行為をすることが出来なかったでしょう。しかし、マリヤは、イエスに愛を表す時を逃しませんでした。彼女は、この機会をとらえて、イエスに対する愛を余す所なく示しました。
私たちの人生にも、その時でなければ出来ないことというものがあります。その時に成すべきことをしなかったために、永遠にその機会を失ってしまったり、先延ばしして遅らせてしまい、とうとう本当に出来なくなってしまうこともあります。機会をうかがっている人は、その機会をとらえることが出来ます。常にイエスを愛し、イエスにささげ、仕えようとしている人は、その機会を得るのです。
マリヤのこの行為は、イエスにとって、大きな慰めであったに違いありません。ヨハ12:3には、「家は香油のかおりでいっぱいになった」とありますから、その場に居合わせた人々をも、香油の良い香りで楽しませられたことでしょう。主に対するささげものは、他の人にも祝福となって流れていくのです。また、イエスは、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(9)と言われました。私たちが主にささげたことも、仕えたことも覚えられているのです。マリヤのように、イエスを愛し、自分に出来る最高のものを、惜しむことなく、機会を捕らえてささげましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師