19.12.8.

御使いガブリエルは、マリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と語りかけました。この「おめでとう」と訳された言葉は、原語では「喜べ」という意味の言葉です。また「恵まれた方」とは、「神の好意を受けた者」という意味です。そして、さらに「主があなたとともにおられます」とも語り掛けられました。その後に続く御使いガブリエルのメッセージは、さらに驚くべきものでした。マリヤは、そのメッセージをどのように受け止めたのでしょうか。

1.信仰をもって主の言葉を受け入れる

御使いガブリエルは、マリヤから生まれる「男の子」が、「神の御子キリスト(王)」であり、「永遠の王国(御国)」を打ち建てると教えました。マリヤが神の御子キリストを生むということは、驚くべきことでしたが、それ以上に驚くべきことは、マリヤに子どもが生まれるということでした。なぜなら、マリヤはまだ結婚していなかったからです。

しかし、マリヤは、ガブリエルに「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(34)と答えました。マリヤは、神からの言葉を信仰をもって受け止め、どのようにしてそれが成されるのか、関心と期待を持ったのです。ガブリエルの答えは、「聖霊」と「いと高き方の力」によるということと、「神にとって不可能なことは一つもありません」(37)ということだけでした。すなわち、人の知恵や方法や努力によるのでなく、聖霊が臨み、神の力が働かれることによって、可能になるということです。

私たちが関心を持つことは、「どのようにして起こるのか」ということでしょう。しかし、「どのようにして」は、神の成される領域であり、私たちの領域ではありません。私たちが知るべき大切なことは、「どのようにして成されるのか」ではなく、「どなたが成されるのか」ということなのです。私たちは、神からのメッセージ、御言葉に対してどのように応答するでしょうか。初めから否定的になって、それを拒んでしまうことはないでしょうか。自分自身や自分の置かれた状況を見る時に、不可能に思えることでも、聖霊が臨み、神の力が働かれることによって、可能になるのです。Cf. ゼカ4:6

2.信仰をもって主の言葉に従う

実は、マリヤが「みごもって、男の子を産」むことは、大きな危険の伴うことでした。当時は、結婚していないのに妊娠することは、不貞の罪を犯したとみなされました。ですから、マリヤが結婚前に妊娠したということが知られたら、マリヤは犯罪者として取り扱われ、人々から非難されることになります。それだけではなく、人々の前にさらしものになり、最悪の場合は死刑にもなることでした。

しかし、御使いガブリエルに対して、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身に成りますように」(38)と言って応答しました。マリヤは、自分自身を全て神に委ね、神の言葉に従おうとしたのです。マリヤの信仰は「人間中心の信仰」ではなく、「神中心の信仰」でした。人間中心の信仰とは、自分の利益や自己実現を第一に求める信仰、自分の願いを実現させることを求める「ご利益信仰」です。神中心の信仰は、神の御心が実現することを第一に求める信仰です。マリヤの信仰は、自分の願いが実現することを求める「人間中心の信仰」ではなく、神の御心が実現することを求める「神中心の信仰」だったのです。

私たちの信仰は、どのような信仰でしょうか。御言葉に従うことによって、自分の描いていた夢が打ち砕かれるかもしれません。また、犠牲が伴ったり、痛みを生じることになるかもしれません。しかし、「何故ですか」と疑問や不満に思ったり、不安になったり、恐れたりせず、マリヤのように、私たちも、自分自身を神に明け渡し、神の御言葉に従わせましょう。

3.信仰をもって主を賛美する

マリヤは、親戚のエリサベツに会うために「山地にあるユダの町」(39)へと向かいました。マリヤは、自分と同じように、御使いガブリエルから子どもが生まれることを告げられ、不可能と思われていたのに、実際に身ごもったエリサベツと会うことによって、神が不可能を可能にされることの確信を得ようとしたのかもしれません。マリヤの声を聞くとエリサベツは、聖霊に満たされて言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(43) 

マリヤも、神をほめたたえて言いました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(46,47) 今日、この賛美は「あがめる」のラテン語から「マグニフィカト」と呼ばれています。ラテン語の「マグニフィカト」とは「大きくする」という意味です。ですから、「主をあがめる」とは、神を「大きくする」ことであり、神がいかに偉大な方であるかということをたたえることです。

この時、マリヤは、人間的には、賛美出来るような状況ではありませんでした。なぜなら、不貞の罪を犯したとして石打の刑にされてしまうような状況にあったからです。これから起こり得ることを考えたら、恐れと不安でいっぱいで、賛美など出来ません。しかし、マリヤは、問題に焦点を合わせたのではなく、神に焦点を合わせたのです。マリヤは、全てを理解してから、神を賛美したのではなく、信仰をもって賛美したのです。自分の感情や自分の置かれている状況に従って賛美するのではありません。信仰の目を神に向け、まず神を賛美するのです。

 

マリヤは、その信仰姿勢のゆえに「恵まれた」者、「幸いな」者と呼ばれたのです。主の御言葉をそのまま信じ、受け取ることの出来る人は幸いです。私たちも、マリヤのように、主の御言葉を信じ切る者となりましょう。

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