15.12.6.
マリヤの献身
ルカ1:26-38
ある日突然、御使いガブリエルがマリヤに現れて言いました。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
あまりにも突然の素晴らしいメッセージだったため、マリヤは戸惑いを感じました。
その後に続く御使いガブリエルからのメッセージはさらに驚くべきものでした。
マリヤはそのメッセージをどのように受け止めたのでしょうか。
1.どのようなメッセージでも信仰をもって受け止める
御使いガブリエルはマリヤが救い主となる男の子を産むと告げました。1:31-33。
救い主の母として選ばれたことも驚くべきことでしたが、
まだ結婚もしていないマリヤが身ごもるということはそれ以上に驚くべきことでした。
マリヤには婚約者であるヨセフがいましたが、二人はまだ結婚していませんでしたから、
子どもが出来るということは考えられないこと、全く不可能なことでした。
ですから、マリヤは、当然、「どうしてそのようなことになりえましょう。
私はまだ男の人を知りませんのに」(34)と御使いガブリエルに問いかけました。
しかし、この応答は決して「信じられない」という否定的ものでもありませんでした。
マリヤは「どのようにしてそれがなされるのでしょう」と尋ねたのです。
御使いガブリエルは、「聖霊」と「いと高き方の力」によるものであると答えました。1:35
そして、最後に「神にとって不可能なことは一つもありません」(37)と言いました。
御使いガブリエルは、マリヤに何も具体的な方法は説明しませんでした。
ただ「聖霊の力による」ということと、「神様に不可能はない」ということだけでした。
私たちが関心を持つことは、「どのようにしてそれが起こるのか」ということでしょう。
どのようにして神様は癒されるのか、どのようにして神様は必要を満たされるのか、
とのようにして神様は不可能を可能になさるのだろうか….。
しかし、「どのようにして」というのは、神様がなされる領域であり、
私たちの関知するべき領域ではありません。
私たちが知るべきことは、「どのようにして」成されるかではなく、
「どなたが」それを成されるのかということなのです。
すなわち、不可能なことのない全能の神様ご自身によるということです。
マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身に成りますように」(38)と言って応答しました。
どんなに信じられないようなメッセージでも、マリヤは信仰をもって受け止めたのです。
私たちは神様からのメッセージに対して、どのような応答をするでしょうか。
「そんなことはあり得ない」、「それは出来ない」、「不可能だ」、「無理」と、
初めから否定的になって、それを拒んでしまうことはないでしょうか。
マリヤのように、神様からのメッセージを信仰をもって受け止める者となりましょう。
2.主の御心に自分を従わせる
当時は、結婚していないのに妊娠するということは不貞の罪を犯したとみなされました。
そして、さらしものになり、最悪の場合は死刑にもなることでした。申命22:20-24。
マリヤは、愛するヨセフと結婚し、かわいい子どもを産み、
幸せな家庭を築くということを夢見ていたのではないでしょうか。
しかし、御使いガブリエルによってもたらされたメッセージは、
マリヤの夢を打ち砕くようなものであったのです。
しかし、マリヤは言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身に成りますように。」(38)
これは、マリヤの信仰と献身を表わす言葉です。
マリヤの信仰は「人間中心の信仰」ではなく、「神様中心の信仰」でした。
人間中心の信仰とは、自分の願いを実現させることを第一に求める「ご利益信仰」です。
神様中心の信仰は、神様の御心が実現することを第一に求める信仰です。
クリスチャンの中には、神様を信じたり、祈ったり、教会に来る目的や動機が、
神様の御心を求めたり、神様の御心が実現されることを求めるためではなく、
自分の願いがかなえられ、自分の必要が満たされ、
自分が幸せになるためだけになってしまっている人がいるのではないでしょうか。
勿論、神様は私たちの願いを聞き、私たちの必要を満たして下さるお方であり、
私たちは神様に私たちの願いや必要を大胆に祈り求めることが出来ます。
しかし、自分の願いが実現することを求めるだけの信仰であるなら、
やがてその信仰は失われ、神様から離れてしまうでしょう。
5つのパンと2匹の魚の奇跡によって満腹した群集は、
イエス様を捜して集まって来ましたが、自分たちの腹が満たされないと分かると、
イエス様から離れて去ってしまいました。ヨハネ6:66。
彼らの信仰は、自分の願いが実現することを求める人間中心の信仰だったのです。
イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」の最初の部分は、
「御名があがめられ」、「御国が来」、「みこころが…行われますように」(マタイ6:9,10)です。
また、私たちが第一に求めるべきものは、「神の国とその義」(マタイ6:33)なのです。
私たちは、もはや自分のためではなく、神様の栄光のために生きる者となったはずです。
しかし、神様の御心の実現、神の国の実現を求めることを忘れてはいないでしょうか。
神様の御心が実現されるためには、
自分の描いていた夢が打ち砕かれることがあるかもしれません。
犠牲が伴ったり、痛みのともなうようなこともあるかもしれません。
周りの人々から誤解されたり、悪く言われたりすることもあるかもしれません。
しかし、神様に反発したり、神様の言葉に従うことから逃げたりしないで、
マリヤのように、私たちも、「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身に成りますように」(38)と、自分を神様に明け渡し、
神様の御心が実現することを求める神様中心の信仰を持つ者となろうではありませんか。
Filed under: 伊藤正登牧師