15.10.11.
一つとなる教会
エペソ4:16
主が教会の一致について私たちに語られることに耳を傾けましょう。
1.キリストの体である教会に一体となるように召された
聖書は「教会はキリストの体である」と教えています。エペソ1:23。
そして、私たちはキリストの体である教会に一体となるように召されたのです。
Ⅰコリント12:13。エペソ3:6。コロサイ3:15。
私たち一人一人はキリストの体である教会を構成する「器官」です。Ⅰコリント12:22。
一つの体が様々な器官によって成り立っているように、
教会も様々な人によって成り立っている一つのキリストの体です。Ⅰコリント12:12,14,20。
ですから、私たちはキリストの体である教会として、一つとならなければなりません。
キリストの体である教会として一つとなるということは、
それは単に「教会に集う」ということではなく、「教会に属する」ということを意味します。
ただ集まっているだけでは「教会」とは言えません。それは単なる「群集」です。
教会がキリストの体であるということは、教会が一つの組織体であるということであり、
私たちがキリストの体を構成する器官であるということは、
私たちが教会の構成員であることを示しています。
キリストの体なる教会に所属するということは、聖書的で、神様の御言葉に従うことです。
しかし、教会は必要ではないと考えたり、教会の所属を軽く考えている人たちもいます。
「私は聖霊に導かれて自由に信仰生活を送りたいのです。教会に縛られたくありません。」
このような考え方は偏っていて、間違っていて、聖書的ではなく、御言葉に反しています。
キリストの体である教会として一体となるように召し集められた私たちは、
キリストの体を構成する器官としてしっかりと組み合わされ、
一つとならなければなりません。
2.一つとなってキリストの体である教会を建て上げる
聖書は、私たちがキリストの体として一つとなるようにと言っています。エペソ4:1-4。
パウロは「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と言いました。
「その召しにふさわしく」歩むということは、文脈から「御霊の一致を熱心に保」つことです。
すなわち、教会として一つとなるように自分の意志を傾け努力するということです。
またイエス様は、弟子たちが一つとなるように祈られました。ヨハネ17:11,21-23。
私たちが一つとなることは、神様の御心であり、イエス様が願っておられることなのです。
ですから、もし一致しないのなら、神様の御心に反し、イエス様を悲しませているのです。
また、もし分裂や分派などで教会の一致を壊すなら、キリストの体を壊すことになります。
パウロは、「分裂、分派」は「肉の行い」だと言っています。ガラテヤ5:19,20。
そういう人は「御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」(ユダ1:19)
私たちがキリストの体である教会として一つとなるためには、何が必要なのでしょうか。
ピリピ2:2。私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、
同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
① 愛による一致
私たちが一つとなるためには、愛が必要です。
キリストの体である教会は「愛のうちに建てられるのです」。エペソ4:16。
中には人間的に愛し難い人がいるかもしれません。
誰かに失望したり、怒りや嫌気を感じたりするということは起こり得ることです。
教会は、自分自身を含めて、不完全な者たちの集まりだからです。
しかし、どんなに不完全であっても、問題や弱さや欠点があっても、
教会を嫌ったり、教会から去ってしまうのではなく、教会を愛するのです。
それは、イエス様ご自身が教会を愛されたからです。エペソ5:25。
イエス様は、イエス様が私たちを愛して下さったように、
私たちが互いに愛し合うようにと命令されました。ヨハネ15:12。
イエス様を愛する者は、教会をも愛するのです。Ⅰヨハネ4:20,21。
教会を愛するということは、イエス様を愛するということと一緒なのです。
教会に対する態度がイエス様に対する態度と同じだからです。Cf.使徒9:4,5。
正当な理由があって、人に対して怒りを抱くこともあるでしょうが、
私たちは神様に赦された者として、他の人をも赦すべきなのです。マタイ18:23-33(or35)。
イエス様は、「七度を七十倍するまで」赦すようにと言われました。マタイ18:21。
批判したり、裁き合うのではなく、愛をもって赦し合い、一つとなるのです。コロサイ3:13,14。
私たちが教会として一つとなるためには、教会を愛するということが必要です。
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