主と心を一つにする
Ⅱ歴代16:9
21.7.4.
Ⅱ歴16:9は、予見者ハナニが南ユダ王国のアサ王に、叱責の言葉として語った言葉です。今日は「主と心を一つにする」というテーマでお話しします。アサは、どのような王だったでしょうか。
1.主を求め、主を信頼したアサ王
アサは、主の目にかなう良い事を行い、偶像を排除しました(Ⅱ歴14:2-3)。更に、「ユダに命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法を行わせた」(14:4)のです。その結果、南ユダ王国には平安が与えられ(14:5)、攻撃して来る者はいませんでした(14:5)。
ある時、クシュ(エチオピア)の大軍勢が多くの戦車を率いて南ユダ王国に攻めて来ました。その時、「アサはその神、主に叫び求め」(14:11)、祈りました。すると、主はアサの祈りに答え、クシュの軍勢を打ち破り、敗退させました(14:12)。この後アサは「ユダとベニヤミンの全地から、…エフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき物を除いた。そして、主の玄関の前にあった主の祭壇を新しく」(15:8)しました。そのため、主はアサと共におられ、南ユダ王国に平和と繁栄をもたらされました。
北イスラエル王国の人々も、「主が彼とともにおられるのを見て」(15:9)、続々と南ユダ王国のアサの元にやって来ました。人々は主の臨在のある所に、主の臨在に引き寄せられて来るのです。さらに南王国の人々は、「心を尽くし、精神をつくしてその父祖の神、主を求め」(15:12)、主を求めない者は処刑されるという契約を喜んで立てたのです(15:13-15)、その結果、主は南王国を周囲の敵から守り、「安息を与え」(15:16)ました。
「アサの心は一生涯、完全であった」(15:17)と言われています。「完全であった」ということは、失敗も過ちも犯さないという完全さではありません。「心が主と全く一つであった」ということ、主の御心と一つであったということです。つまり、主が喜ぶことを喜びとし、主が嫌うことを嫌い、主が望まれることを行うということです。アサの心は、主と全く一つでした。Ⅰ列15:11には、「アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行った」とあります。アサには、ダビデと同じような心、すなわち「主と一つとなる心」があったのです。こうして、南王国は、「アサの治世の第三十五年まで」(15:19)、平和を保ちました。
2.人を求め、人に頼ったアサ王
「三十六年」(16:1)目に、北王国のバシャ王が南王国との境に「ラマ」(16:1)を築き、人々が北王国から南王国へと流れることを阻止しようとしました。アサは、ラマの建設を阻止するため、「主の宮と王宮との宝物倉から銀と金を取り出し、ダマスコに住むアラムの王ベン・ハダデのもとに送り届け」(16:2)ました。そして、アラム(シリヤ)の王ベン・ハダデに、北王国との「同盟を破棄し」、北王国が南王国から離れるように仕向けてほしいと頼んだのです(16:3)。ベン・ハダデは「アサ王の願いを聞き入れ」、軍隊を北王国に送り町々を襲わせました(16:4)。その結果、北王国は、ラマを築くことをやめ、退いていきました。こうして、南王国は、北王国からの侵略から逃れられました。
しかし、アサは、主を求めず、人を求め、主に頼らず、人に頼ったのです。ハナニの言葉。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に頼みませんでした。」(16:7) さらに、以前神が南王国をクシュから救い出されたことを思い起こさせました(16:8)。そして、大切なことを宣言しました。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(16:9) ハナニは、アサがしたことを「愚かなことを」(16:9)と言って責めました。
アサは、不信仰を指摘されましたが、悔い改めませんでした。逆に、「アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけ」(16:10)てしまったのです。その3年後、アサは、「両足」が重い病気になってしまいました(16:12)。しかし「その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(16:12)のです。当時の「医者」は、呪術を使って病人を癒していました。つまり、アサは主を求めず、呪術者を求め、主に頼らず、呪術者に頼ったのです。そして、その2年後、アサは亡くなりました(16:13)。41年間の統治でした。
3.心が主と全く一つであるということ
主は「その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(16:9)。主は、主と心が一つになる者を求めておられます。主が見ておられるのは、外見ではありません。その人の心を見ておられるのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサム16:7)と言われています。この言葉は、ダビデがイスラエルの王として選ばれる時、主が語られた言葉です。ダビデは、生涯、心が主と一つとなっていました(Ⅰ列王15:3)。
心が主と一つとなるためには、主との親密な交わりを持つことが必要です。「主と交われば、一つ霊となるのです。」(Ⅰコリ6:17) そして、主との交わりは、聖霊との交わりによって成されます(Ⅱコリ13:13)。ダビデも常に主の臨在を慕い求め、主との親密な交わりを愛し求めました(詩27:4)。
イエスは父なる神と全く一つになっておられました。ですからイエスは、父なる神の言葉を語り、父なる神の願うことを行われました。そして、イエスは、父なる神との交わりを愛し、慕い求め、大切にされ、いつも父なる神との祈りの時を持っておられました(マル1:35、マタ14:23、ルカ6:12、9:28)。
初めの頃、「アサの心は…完全」でした。主と心が全く一つになっていました。しかし、やがて「アサの心」は、主から離れてしまいました。長年の平和と繁栄の中で、「主が共におられ、守って下さる。主が祝福して下さる。だから大丈夫だ」という間違った安心感を持ってしまったからでしょう。そのため、主を求めることも無くなり、主との交わりも無くなり、心が主から離れてしまい、信仰も無くなってしまったのではないでしょうか。
主と心が全く一つとなるため、主との親しい交わりを愛し、慕い求めましょう。主の臨在、聖霊の満たしを求め、主の前に出ていきましょう。
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