17.1.15.

主のチャレンジを受け入れる

イザヤ43:15-19、出エジプト14:1-31

神様は、預言者イザヤを通して「見よ。わたしは新しい事をする」と語られました。
この年、神様が「新しい事」を起こして下さることを期待しましょう。

1.主は新しいことをなさる

神様が私たちに成して下さる「新しい事」とは、私たちが想像出来るような事ではなく、
今までになかった、また考えもしなかった全く「新しい事」です。
イザヤ43:16,17には、神様が「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した」とあります。
これは、出エジプト14章に記されている出来事です。
神様は、エジプトを脱出したイスラエルを追って来るエジプトから救うために、
紅海を真っ二つに分けて、イスラエルが乾いた地を逃げるようされました。
そして、イスラエルが紅海を渡り終わると、
イスラエルの後を追って来たエジプト軍は、海に飲み込まれて全滅してしまいました。
目の前の海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れるなどということを
いったい誰が考え、想像することが出来たでしょうか。
これは、今までなかったこと、誰も考えたことがないことでした。
このように、神様が成される「新しい事」とは、
今までになかった、また誰も考えもしなかった「新しい事」です。
Ⅰコリント2:9。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
イスラエルのために紅海を分けて乾いた道を造られた神様は、
私たちのためにも「荒野に道を、荒地に川を設け」て下さるのです。
神様は、私たちの人生の中にも「新しい事」をして下さいます。
神様が成して下さる「新しい事」に期待しようではありませんか。

2.主は信仰のチャレンジを与えられる

神様は、私たちの人生に「新しい事」をして下さいますが、
それは、いつでも私たちが願った通りの形で来るとは限りません。
しばしば、それは私たちが願っていない形で来ることがあります。
神様が、イスラエルのために、紅海を分けて、乾いた道を備えられた時もそうでした。
神様は、イスラエルに紅海の「海辺に宿営しなければならない」(1)と言われました。
しかし、そこは、行き止まりとなっていて、エジプト軍が追って来たら、
逃げることが出来ず、捕らえられてしまうような場所でした。
このように、神様が「新しい事」を成される時、私たちが願っていない事が起こったり、
私たちが願っていない形でやって来ることを知っておかなければなりません。
しかし、予期しない出来事が起こる時、私たちは恐れたり、動揺したり、疑ったり、
文句を言ったりしたくなるかもしれません。
イスラエルの人々も、後ろからエジプト軍が迫って来るのを見て、
「非常に恐れて、主に向かって叫んだ」(10)のでした。
そして、彼らは、モーセに対してもつぶやき、文句を言いました。11-12。
しかし、そのような時こそ、しっかりと神様を信じ、信頼しなければならないのです。
モーセは、恐れ動揺するイスラエル人たちに言いました。「恐れてはいけない。
しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(13)
「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(14)
神様は、モーセに語ったように、私たちにも語り掛けておられます。
イザヤ41:10。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
Cf.申命1:29-30、20:1-4、イザヤ43:1-2
信じられるような根拠が何もなくても、神様を信じ、信頼しなければなりません。

3.主の御声と導きに従う

神様は、「新しい事」をされる前に、私たちに信仰のチャレンジを与えられます。
それは、私たちの信仰を強くし、私たちを成長させるためです。
勿論、神様は、決して強制はしないので、神様のチャレンジから逃げることも出来ます。
ただ自分の好きな事、したい事だけをしていたら、楽で、楽しいかもしれません。
しかし、それでは成長することは出来ず、
試練があるとすぐに倒れてしまうような弱い人間になってしまいます。
私たちは、自分の好みで、主に従うのではありません。
知らず知らずの内に、教会や自分の中に、人間中心の考え方が入ってはいないでしょうか。
私たちは、自分でも気付かない内に、神様中心の信仰ではなく、
人間中心(自分中心)の信仰となってしまってはいないでしょうか。
自己実現のための信仰、自分が祝福されるための信仰となっていないでしょうか。
私たちの主は誰なのでしょうか。主なる神様でしょうか。それとも自分自身でしょうか。
私たちは、人間中心の信仰ではなく、神様中心の信仰を持たなくてはなりません。
そして、主なる神様が語られること、導かれることに従わなければならないのです。
Ⅰサムエル15:22。するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
Cf.箴言3:5-7

神様は、私たちの人生にも「新しい事」をして下さいます。
しかし、それは、いつでも私たちが願った通りの形で来るとは限りません。
そのような時こそ、恐れたり、動揺したり、疑ったり、文句を言ったりせずに、
しっかりと神様を信じ、信頼しなければなりません。
そして、私たちが、主を信じ、信頼して、主の御声と導きに従う時、
神様の御業と栄光が現されるのです。主なる神様のチャレンジを受け入れていきましょう。