15.03.08
主の山の上には備えがある
創世記22章1~14節
1. 神様は私たちに一番厳しいもので従順を求めてくる時があります。
創世記からアブラハムについて読んだ時に、息子イサクがどんなに待ち望んだ末に与えられたかをよく知ることができます。アブラハムにとってイサクは、何にも増して貴重な存在であったに違いありません。神様もアブラハムがイサクをどんなに愛されているかを良く知っていました。しかし神は、彼らが喜びの只中にあるときに、このひとり息子を犠牲に捧げよという信じられない程過酷な試練をアブラハムに告げました。
ところが、神様がアブラハムにイサクを連れて行きなさいと命令したときに、アブラハムに三度も重ねてイサクのことを示すのです。2節を原語からみると、・あなたの子、・あなたの愛している一人子、そして、・イサクを連れて、モリヤの地に行きなさいと命令します。イサクのことを敢えて3度も違う表現でアブラハムに告げるのです。なぜ神様は、同じことを三度も反復したのでしょうか?
その理由は、神様にとって今必要な捧げものはほかにもない、・あなたの息子、・あなたの愛している一人子、・そのイサクなのだ、という神様の要求を確実に伝えるためでした。ここには、アブラハムに対する神様の圧倒的な御心とそして神様がいかにアブラハムに従順をもとめているかが、よく表れています。
つまり、お前の一番大切なものを私に捧げることができるのか、しかもあなたが好んで選んだ捧げものではなく、この私があなたに命じるそのものを、私にささげることができるのかという大変厳しいものでありました。
私たちの信仰の歩みでもこのような場合があるかもしれません。神様はご自分の御心を、メッセージ、あるいは環境を通して表し、私たちに従順を求めてくる時があります。それが時には譲りたくない時間だったり、お金だったり、家族のことだったり、人生の夢だったり、仕事のことだったりします。自分にとって、一番犠牲にしたくない譲りたくない物や事柄に対して、神様はまさにそれを神様や教会のために捧げなさいと要求してくるかもしれません。しかも、アブラハムのようにほかにもなく自分が一番大切にしているものを。
でも、もしかして、神様が要求したことを、今まで何度も拒否してきているかもしれません。神様もそのような私を放棄しないで何度も同じことを要求しているかもしれません。
実は、神様は私たちが信じて従うことを期待しておられるのですが、しかし私たちは聞いても今はこうだから、ああだから、今度にします、もっと後にします、もっと祈ってみますと、いつも後回しにしているかもしれません。
アブラハムも最初は神様から自分の最愛の一人息子をいけにえとしてささげなさいと言われたときに、実際は相当悩んでいたかもしれません。しかし、 アブラハムは一晩過ごしてすぐにも聞き従いました。それがやはりアブラハムの信仰であり従順でした。こうして、アブラハムの従順はアブラハムの信仰を確かなものです。
2. 従順という行いで信仰は生まれ成長します。
こうやって、ふたりは指示された場所に向かって3日の間歩きつづけ、従ってきた僕たちを残してモリヤ山へ向かいます。そのとき、イサクは「お父さん、火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と言いました。この言葉はアブラハムにとって心を鋭くえぐったに違いありません。父親を信じきっていた息子はなおも、「 全焼のいけにえを忘れてきたのではありませんか」と問いかけます。
もう哀れとしかいいようのない父親アブラハムは、この約束の子を見つめ、「主が備えてくださる」と答えるのが精一杯です。ですからもしかして、アブラハムがこの三日間いろんな悩みで途中辞めてしまう可能性さえ考えられます。やっぱり神様は私にひどすぎる!やっと約束のイサクが与えられたのに、この息子を今度は、生ける捧げものとしてささげないって、なんということだ!神様、これはあまりにもひどいんじゃないですか!
愛の神様が、約束の神様が到底理解できないことを要求するとは。裏切られた気持ちで、途中辞めてしまったことも普通の人であれば考えられます。しかし、アブラハムは神様の言葉通り従いました。アブラハムは、従順という行いで信仰を貫きました。
従順がない信仰は本物ではありません。信仰と従順は必ず一緒になってこそ命のあるものとなります。聖書は従順によって信仰が全うされると教えています。わたしたちも、神への従順によって私たちの信仰の歩みを
命あるものとして歩んできたいと思います。
「~行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)
3 主の山の上に備えがあります。
こうしてふたりはいっしょに歩き続けました。彼らは山に登り、石を集めてその上にたきぎを載せ、そしてイサクは手足を縛られ、祭壇の上にひざまづきました。今まさに父親の手にかかって死んで行かねばならない息子に対して、彼の身も霊も引き裂かれる思いであったに違いありません。
準備が整い、やがて刀がさやから抜かれ、アブラハムがその刀を振りかざしてまさに息子を打とうとした時、神の使いが現れその行為を止めました。アブラムが周囲を見回したところ、角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに神に捧げることができました。
神様は、実は最初からイサクの代わりのささげ物を備えていました。神様は最初から準備しておられ、アブラハムが神の命令に従ってイサクを連れて主の山に行っていけにえとして捧げるまでを待っておりました。ここでわかるのは、備えがある主の山まで行く努力を、私たち側もしなければならないとこです。
<なぜ神はアブラハムをここまでにして試練をあたえるのか>
この試しの目的は、アブラハムの心に神の教えと祝福を深く覚えさせるためであり、この方法でしか得ることのできない神への知識と無組をアブラハムに得させるためです。これこそ、神が人に試練を与える理由でありこれこそ神様の祝福を体験できる道であるのです。
しかし、私たちが知らなければならないことは、神は神の声に従おうとする人には神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらないということです。(第一コリント10:13)
神様は実はアブラハムがこの試練に耐えられる次元のものとして最初から分かった上で、さらに山の上に備えをして、アブラハムの従順をまっておりました。ここに私たちにも希望があるわけですね。
<結論> 私たちの人生で今は、それに従順するには余りにも矛盾で到底受け入れたくない、避けたいもの、あるいは今はとても放棄できないものとして思っている何かに関して神様より試練があるかもしれません。
しかし、神様はこの世にない祝福をもって私たちの従順を待っていらっしゃる、真実な方でることを今日の箇所は私たちに教えています。室は神への従順は、人生の祝福の道です。
神は従順しない人より従順する人により多くの関心を示しより多くの機会と祝福を与えてくださいます。
この方により信頼をおいて多くの祝福を勝ち取る今週1週間の歩みでありますように願いたいものです(完)。