主の臨在の中に
Ⅰ列王19:1-18

21.7.18.
エリヤは、旧約聖書を代表する偉大な預言者でした。しかし、19章では、エリヤの弱さが記されています。エリヤでさえも、恐れたり、失望したり、弱ることがありました。そのような中から、エリヤはどのようにして立ち直ったのでしょう。
1.主の元に逃れる
「アハブは、エリヤがしたことすべて」、バアルの「預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げ」(1)ました。当時、北イスラエル王国の人々は、バアルという偶像を礼拝していました。そこで、エリヤは、祈りによって天から火を降らせ、人々にイスラエルの神こそが真の神であることを示しました(Ⅰ列18:16-40)。しかし、イスラエルの王アハブも妻イゼベルも悔い改めて神に立ち返りませんでした。それどころか、彼らは、エリヤの命を狙うようになったのです(2)。
そこで、エリヤは「恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去」(3)りました。そして、南ユダ王国の領土である「ベエル・シェバ」(3)に逃れました。更にそこに「若い者」を残し、一人で「荒野へ一日の道のりを入って」行きました(4)。そして、エリヤは「えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って」(4)言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」(4) エリヤは、自分の無力さ、自分のしたことの空しさを感じ、失望してしまいました。
更に、エリヤは「四十日四十夜、歩いて神の山ホレブ」(8)に向かいました。「ホレブ」は、かつてモーセが神と会い、律法を授けられた山でした。エリヤは、単にイゼベルを恐れて、逃げようとしていたのではなく、主を求めたのです。誰にでも心身ともに疲れ切って、神に不平不満をつぶやいてしまうこともあります。そのような時、私たちも、主ご自身を求め、避け所なる主のもとに逃げ込みましょう(詩91:1,15)。Cf.詩46:10。
2.主の臨在の中に立つ
エリヤは、ホレブ山に着くと「そこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごし」(9)ました。すると、主はエリヤに「エリヤよ。ここで何をしているのか」(9)と問いかけられました。エリヤは、自分が熱心に主に仕えたにも関わらず、イスラエルの人々が真の神を捨て、その預言者たちを殺し、最後に残ったエリヤまでも殺そうとしたことを訴えました(10)。すると主は、エリヤに「外に出て、山の上で主の前に立て」(11)と言われました。主はエリヤに自分が閉じこもっている悩みの「ほら穴」から「出て」、「主の前」すなわち主の臨在の中に「立て」と招かれたのです。
すると、そこを「主が通り過ぎられ」(11)ました。Cf.出33:22。この「通り過ぎ」は、単なる「通過」ではなく、ヘブル語で「アーヴァル」と言い、「主の顕現」すなわち「主の臨在」を表しています。主の臨在に触れられ、満たされるということは、とても大切なことです。いつまでも思い煩い、疑い、失望という「ほら穴」に閉じこもっているのではなく、その「外に出て」、「主の前に」すなわち主の臨在の中に立たなくてはならないのです。
私たちは、賛美によって、主の臨在の中に立つことが出来ます。詩22:3には、主は「賛美を住まいとしておられます」とあります。この詩篇には「ダビデの賛歌」というタイトルが付けられています。ダビデは、サウル王に命を狙われ、荒野を逃げ回りました。そのような時、ダビデは、主に自分の苦しい状況や気持ちを叫び訴えました(19-21)。しかし、その後で、主を賛美する姿勢に変わっています(22,23,25,26)。ダビデは、賛美をもって主の臨在の中に立ったのです。私たちも悩みの「ほら穴」から「外に出て」、主の臨在の中に立たなくてはなりません。
3.主の御声を聞く
主が通り過ぎられると、「激しい大風」、「地震」、「火」などの現象が続きましたが、その後で主の「かすかな細い声」(12)がありました(11,12)。主は再びエリヤに「ここで何をしているのか」(13)と問いかけられました。再びエリヤは、自分が直面している状況について訴えました(14)。
すると、主は「ハザエル」を「アラムの王」に、「エフー」を「イスラエルの王」に、「エリシャ」を後継の預言者として任命するようにと命じました(15,16)。主は、彼らを用いて、アハブと北王国を厳しく裁かれると言われました(17)。また、主は、真の神を信じ、真の神に仕える者を「イスラエルの中に七千人を残しておく」(18)と言われました。
主は、ご自身の臨在の中で語り掛けられます。Ⅰサム3:3に「サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」とあります。「主の宮」には、「神の箱」すなわち「契約の箱」が置かれていました。サムエルは、いつも「主の宮」にいて、主の臨在の中で、主に仕えていました。それゆえに、サムエルは、主の声を聞くことが出来たのです。
また、サムエルは「主よ。お話ください。しもべは聞いております」(Ⅰサム3:10)と答えました。サムエルは、主の語りかけに対して、心を開き、耳を傾けました。主の声は、主の語りかけを聞こうとする「聞く耳のある者」(マコ4:9,23)しか聞けません。「主が語られることは何でも聞き従います」という心の姿勢で、主の語りかけを待ち望むことが大切です。今日も、主は、私たちに「かすかな細い声」で語りかけておられます。Cf.マタ4:4。
エリヤは、主に力強められて、新たに歩み始めました。自分の弱さを覚える時、主を求め、主の臨在に近づき、主の御声をいただきましょう。
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