2017.12.31
主は私の羊飼い
詩篇23:1
詩篇23篇は、ダビデの賛歌です。ダビデは、主は羊飼いで、私たちは羊であると歌いました。主が羊飼いであるとは、どのような意味が込められているのでしょうか。
1、 主イエス様が羊飼いとなられた
主イエス様は、貧しく、見下されていた羊飼いとなって下さいました。神の御子であり、神としてあがめられるべきお方が、羊飼いのように仕える者となられたのは人間と同じようになるためでした。ピリピ2:6~8 イエス様は、人間の苦しみを共に受けられたので、私たちの本当の苦しみも辛さもよく知っています。イエス様は良い羊飼いであり、羊のために命を捨てるお方です。ヨハネ10:11~13
2、 私の羊飼いとなって下さった
イエス様が見ておられるのは、羊たちではなく、1匹の羊です。主は「私たちの羊飼いではなく、私の羊飼いです」ルカ15:3~7 もし、羊飼いなる主から目を離してしまうなら、罪の中を再び迷い始めます。けれども、イエス様は1匹の羊を何度でも探し出し、見つけて下さるのです。罪を犯し、後悔していることがあるなら、私の羊飼いのもとに帰りましょう。第一ヨハネ1:9、ヘブル12:1,2
3、 私は乏しいことはありません
「乏しいことがない」というのは、「何も欠けることがなく、不足することがない」という意味です。羊飼いが1匹の羊をいつも見守っているように、主はどのような時にも共にいて、正しい道へと導いて下さいます。詩篇23:2~6 主が私の羊飼いなら、自分が願っていることが満たされないように思えても、乏しくはありません。主は必要の全てをご存じで、必要な時には満たして下さるお方です。マタイ6:26
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と告白しながら歩み続ける時、主イエス様は、新しい一年も良い羊飼いとして導いて
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