17.4.2.
主を待ち望む
イザヤ40:28-31
イエス様の言葉に従って、舟に乗り込んだ弟子たちを嵐が襲いました。
同じように、私たちも、イエス様に従う歩みの中で、
人生の嵐が襲い掛かって来ることがあります。
しかし、そのような時でも、恐れることなく、慌てることなく、疑うことなく、
共におられる主の前に静まり、主を待ち望むことが必要です。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」のです。
では、「主を待ち望む」とは、どういうことなのでしょう。
1.人間は神様との交わの中に生きるように造られた
私たち人間は、神様に似せて造られました。創世1:26,27。
神様が霊的な存在であるように、私たち人間の本質も霊です。
神様に知性、感情、意思、道徳心などの人格があるように、私たちにも人格があります。
これは、私たちが神様との人格的な交わりを持つことの出来る
霊的な存在として造られたということです。
私たちは、神様の霊である聖霊によって、神様との交わりを持つことが出来ます。
人間だけが神様を覚え、神様との交わりを持つことの出来る存在なのです。
そして、私たちが聖霊によって、神様との親しい交わりの中にある時、
私たちには霊的ないのちが溢れ、私たちは霊的に生きる者となり、
生きるための新しい力をいただくことが出来るのです。
逆に、神様との交わりによる霊的ないのちがないなら、生きる力に欠けてしまうのです。
神様がアダムに神様の言葉に背く時、死ぬと言われたのは、
神様との霊的な交わりがなくなり、霊的ないのちを失うことを意味していたのです。
ルカ10:38-42。マルタは、イエス様をもてなすために忙しく動き回っていました。
しかし、マリヤは、イエス様の足もとでイエス様の言葉に耳を傾けていました。
マルタは、何もしないマリヤを責め、イエス様にも文句を言っています。
マリヤは、イエス様を愛し、イエス様との交わりを何よりも求めましたが、
マルタは、自分の奉仕(ミニストリー)を愛していたのです。
主との交わりがなくなると、霊的ないのちを失い、力を失い、
そして人を責めるようになり、神様に文句を言うようになるのです。
2.神様との交わりの時を持つ
ですから、私たちは、主なる神様との交わりを求めなくてはなりません。
イエス様ご自身も忙しいミニストリーの合間に、
父なる神様との親しい交わりの時を持っていました。
そして、イエス様は、父なる神様との交わりの中で、
父なる神様の御心を確信し、ミニストリーにも力が与えられたのです。
主との交わりを持つことは、自然に放っておいて出来ることではありません。
時間のある時に、主との交わりを持とうという考えでは、なかなか実行出来ません。
主との交わりを持つためには、何らかの犠牲を払わなければならなのです。
たとえば、そのための時間を割いたり、一人になれる場所に行ったり、
自分のしたいことを脇に置いたりしなければならないのです。
私たちは、主との交わりを持つための時間と場所を造らなければなりません。
今日、サタンは、忙しさを用いて、人々が静まって神様を仰ぎ見ることよりも、
何かを得るために、必死に走り回らなければ安心出来ないようにしています。
「何かしなければならない」、「全て自分がやらなければならない」、
というストレスや葛藤の中で、平安を失い、疲れ果てています。
しかし、「何かしなければならない」という考えを捨てて、主の前に出るのです。
イエス様は、私たちに語り掛けておられます。
マタイ11:28。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
3.神様がどのようなお方であるかを知る
詩篇46:10には、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」とあります。
この「やめよ」は「静まれ」という意味で、英語では「Be still」(NKJ)と訳されています。
また他の英語の訳では「Stop fighting」(TEV)となっています。
私たちの日々の生活には、忙しさや問題など様々な戦いがあります。
また、人間関係や心の中でも様々な葛藤があります。
しかし、慌てたり、悩んだりすることをやめ、主の前で静まり、主を思い巡らすのです。
神様は、この世界を造られた創造者、全地全能なるお方、神様に不可能はありません。
神様は、必要を満たされるお方、私たちのために戦い勝利を与えて下さるお方、
癒して下さるお方、全てのことを働かせて益として下さるお方です。ローマ8:28。
神様は、私たちの人生を全てを支配しておられます。
私たちの人生に起こる出来事は全て、神のご計画の中にあるのです。
神様よりも大きな問題はなく、神様にとって大きすぎる問題はありません。
問題がどんなに大きいかということではなく、
神様がどんなに偉大なお方であるかということを考えなくてはなりません。
問題にではなく、神様に焦点を定めましょう。
主がどのようなお方か思い起こし、主に期待するなら、
信仰は引き上げられ、強められ、新たな力を得、希望を持って生きることが出来るのです。
どのような試練の嵐の中でも、主なる神様を待ち望みましょう。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」のです。
そして、その人は、「走ってもたゆまず、歩いても疲れ」ることはないのです。
主を待ち望み、新しい力を得て、どんな試練の嵐の中も羽ばたいていきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師