19.11.10.
イエスは、弟子たちとの夕食の席で、弟子たちの足を洗われました。なぜ、イエスは、弟子たちの足を洗われたのでしょうか。イエスが弟子たちの足を洗われたことには、どのような意味があったのでしょうか。
1.イエスは弟子たちに愛を示された
この時、イエスと弟子たちとの別れの時が近づいていました。イエスは、これから十字架にかかり、死のうとされていました。イエスの十字架の死は、私たちを永遠の滅びから救うための身代わりの死でした。別れの前に、イエスは弟子たちに「愛を残るところなく」(1)表したいと願われたのです。イエスは、弟子たちを心から愛しておられました。
弟子たちは、全てを捨ててイエスに従い、約3年間、イエスと共に歩みました。しかし、彼らは、決して立派な信仰者たちという訳ではありませんでした。彼らには、欠点や弱さがあり、しばしば失敗してしまうこともあり、イエスから叱られてしまうこともありました。弟子たちの中には、イスカリオテのユダもいました。彼は、悪魔に心を支配され、イエスを裏切って、ユダヤ人に売り渡そうとしていました。しかし、イエスは、ご自分を裏切るユダにさえ愛を示されたのです。この後、イエスが捕らえられると、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいます。また、ペテロは、イエスを知らないと3度も否定してしまいます。イエスは、全てをご存知でしたが、それでも弟子たちを心から愛されたのです。
Ⅰヨハ3:18に「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」とありますが、本当の愛には行動が伴います。イエスの弟子たちに対する愛は、言葉だけのものではありませんでした。イエスは、その愛を弟子たちの足を洗うことによって表されたのです。他の人の汚れた足を洗うということは、誰もやりたくないことでしょう。それは、その人に対する愛がなければ、出来ないことです。イエスは、弟子たちに対する愛を彼らの足を洗うことによって表されたのです。
2.互いに仕え合う
イエスが弟子たちの足を洗われたのは、彼らに対する「模範」でもありました。イエスは、ご自分が弟子たちの「足を洗った」ように、弟子たちも「また互いに足を洗い合う」ようにと言われました(14,15)。イエスは、弟子たちに対する愛を示すために、彼らの足を洗われました。ですから、「互いに足を洗い合う」ということは、「互いに愛し合う」ということなのです。
そして、「互いに愛し合う」ことの行動の一つは、「互いに仕え合う」ということです。イエスは、「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれ」ました。そして、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、・・・手ぬぐいで、ふき始められ」ました。「足を洗う」ということは、「しもべ」がする仕事でした。イエスは、「しもべ」となって、弟子たちの足を洗われたのです。実はこの時、弟子たちは誰も「しもべ」となって足を洗おうとしませんでした。むしろ、弟子たちは、誰が一番偉いかということを議論していました(マコ9:34)。そして、実際に、自分をイエスの次の位にして欲しいと頼んだのです(マタ20:20-21)。
その時、イエスは、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタ20:26-28)と言われました。イエスは、「みなに仕える者になりなさい」、「しもべになりなさい」、と言われました。ガラ5:13には、「愛をもって互いに仕えなさい」とあります。私たちもへりくだり、「仕える者」、「しもべ」となって、「互いに仕え」合いましょう。
3.互いに赦し合う
イエスがペテロの足を洗おうとすると、ペテロはイエスに「決して私の足をお洗いにならないでください」(8)と言いました。それに対して、イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8)と答えられました。するとペテロは、今度は「私の足だけではなく、手も頭も洗ってください」(9)と言いました。それに対して、イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」(10)と答えられました。
イエスを信じた時、私たちの罪は赦され、私たちはきよめられ、義とされました。しかし、私たちは、生涯をかけて変えられ、きよめられていきます。その過程において、過ちを犯してしまったり、失敗してしまうこともあります。しかし、すでに私たちは、罪を赦され、きよめられ、義とされていわけですから、犯してしまった罪だけを告白し、その罪について赦していただけばよいのです(Ⅰヨハ1:9)。このように、「足を洗う」という行為には、「罪の赦し」が意味されていました。
ですから「互いに足を洗い合う」とは、「互いに赦し合う」ということでもあるのです。イエスは、「七度を七十倍するまで」(マタ18:21)赦すようにと言われました。そして、イエスは「憐れみのないしもべ」のたとえ話をされました(マタ18:23-33)。主が私たちの大きな罪を赦して下さったのですから、私たちも赦された者として、他の人をも赦すべきなのです(コロ3:13-14、エペ4:32)。赦しは、相手のためだけではなく、自分自身のためにも必要なのです。いつまでも恨みと怒りを心の中に留めるなら、いつまでも心は傷つき続けるのです。やがて、心も体も蝕まれ、人生はボロボロになってしまいます。自分が握りしめている怒り、憎しみを手放し、主の手に委ねるのです(ロマ12:17-21)。
イエスは「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」(17)と言われました。私たちが互いに愛し合い、仕え合い、赦し合うところに、神の国の祝福が注がれるのです。
Filed under: 伊藤正登牧師