初めの愛に帰れ

黙示2:1-7

21.8.1.

黙示録2章から3章には、アジアの7つの教会に対するメッセージが記されています。メッセージの内容はそれぞれ違っていますが、同じ形式で語られています。最初にキリストがどのようなお方であるのか示されています。次にそれぞれの教会に対する「賞賛の言葉」と「叱責の言葉」が語られ、最後に「悔い改めの勧め」と「勝利を得る者」に対する「約束の言葉」となっています。最初は「エペソにある教会」に対するメッセージです。

1.教会の中に臨在し働かれる主権者なるキリスト

キリストは「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(1)として紹介されています。「右手」とは「」や「権威」を意味し、「七つの星」は、1:20に「七つの星は七つの教会の御使いたち」とあります。「御使い」とは、ここでは人間の使者すなわち「教会の指導者」のことです。従って、キリストは「七つの教会の指導者に権威を持つ方」であるという意味です。また「七つの金の燭台は」は、1:20によると「七つの教会」のことです。「燭台の間を歩く」とは、キリストが教会の中に臨在し、働いておられるということです。ですから、「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」とは、キリストが教会の主権者であり、教会の中に臨在し働かれる方であるという意味です。

2.賞賛された点 : 熱心で忠実な奉仕と正しい信仰の保持

① 行いと労苦と忍耐…熱心で忠実に奉仕した

キリストは、「あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」(2)と語り、エペソの教会の「行い」と「労苦」と「忍耐」について賞賛しています。Cf. Ⅰテサ1:3

a) 行い

エペソ教会のクリスチャンたちの信仰は、口先だけ、頭だけの信仰でもありませんでした。彼らの信仰は「行い」として実際に現されていたのです。Cf.ヤコ2:17Ⅰテサ1:3では「信仰の働き」と言われています。つまり「奉仕」に励んでいたのです。

b) 労苦

「労苦」(コポス)は、ギリシア語で「疲れ果てて倒れるまで働くこと」を意味します。エペソ教会のクリスチャンたちは、力を尽くして奉仕していたのです。Ⅰテサ1:3では「愛の労苦」と言われ、「愛の動機から出た奉仕」(詳訳)と訳されています。

c) 忍耐

エペソ教会のクリスチャンたちは、迫害や貧しさ等の困難の中にあっても、「よく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった」(3)のです。Ⅰテサ1:3では「望みの忍耐」と言われ、希望をもって奉仕し続けていたのです。

② 偽りを見抜いた…正しい信仰を保持した

当時、偽使徒、偽教師、偽預言者が、間違った教えを教会に持ち込むことがありました。エペソ教会にも「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」(2) がいました。6節には、当時の異端の一派「ニコライ派の人々」がいたことが言及されています。しかし、エペソ教会のクリスチャンたちは、彼らの「偽りを見抜いた」のです。彼らは、偽りの教えに騙されることなく、正しい教えと信仰に留まったのです。

3.叱責された点 : 初めの愛から離れた

主は、エペソ教会に「あなたは初めの愛から離れてしまった」と言われました。「離れ」という言葉には、「手放す」とか「捨てる」という意味があります。

① 神への愛がなくなった

エペソ教会は、初めの頃持っていた神への愛を手放してしまったのです。彼らの神への愛は冷えてしまっていました。かつての情熱は消えてしまったのです。彼らからかつての喜びは失われ、その奉仕は表面的、形式的なものとなっていました。

② 隣人への愛がなくなった

また、神への愛を手放してしまったのと同時に、兄弟姉妹に対する愛も手放してしまいました。隣人への愛が冷えてしまい、その関係は表面的、形式的なものとなっていました。どんなに熱心に忠実に奉仕をしても、正しい教理を保持していても、「愛」がないならば、何の意味もありません(Ⅰコリ13:1-3)。神への愛隣人への愛こそ持たなければならないものなのです(マタ22:37-39)。

4.悔い改めへ勧め

は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(5)と言われました。

① どこから落ちたかを思い出す

ある日突然、愛が冷め、失われたのではなく、長い時間をかけて、気付かないうちに、少しずつ、徐々に愛が冷め、失われて行きました。は、どうして「初めの愛から離れてしまった」のか思い出すようにと語られました。

② 悔い改める

「初めの愛から離れてしまった」原因は様々でしょうが、それらはキッカケに過ぎず、本当の問題は自分自身の心の姿勢、信仰にあるのです。「悔い改め」とは「心と行動の方向転換」です。放蕩息子が我に返り、自分の罪を認め、父の家に帰ろうと決断したように(ルカ15:17-20)、へりくだって、自分の非を認め、生き方を変える決断が必要です。

③ 初めの行いをする

「悔い改め」には、行動が伴わなくてはなりません。イエスは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタ3:8)と教えられました。それは、「初めの愛」に生きるということです。

もし「教会」から「初めの愛」がなくなってしまうなら、「教会」は喜びも力もなくなり、「世界の光」としての役割を果たすことが出来なくなるのです(5)。

 

「勝利を得る者」すなわち最後まで信仰を守り通し、主に仕え続ける者には、「パラダイス」における永遠の「いのち」が約束されています(7)。は「初めの愛」を忘れてはならない、「初めの愛」に帰りなさい、と語っておられます。

Filed under: アジアの7つの教会へのメッセージ伊藤正登牧師