19.10.6.

主が、私たちに求めておられることは何でしょうか。

1.人々に対する憐れみの心を持つ

イエスは、人々に御言葉を教え、福音を宣べ伝え、病気を癒すために、「すべての町々や村々を巡って」(35)歩き、自分から人々の所へと出向いて行かれました。そして、イエスは、「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、「かわいそうに思われ」ました(36)。それは、人生の様々な問題を抱えて、自分でどうすることも出来ず、人生に疲れ果て、弱り果ててしまっている状態です。そのような状態にある人々を見て、イエスは「かわいそうに思われた」のです。それは、単に憐れまれたという以上に、「心に深い痛みを覚えた」ということです。

私たちは、どれだけイエスと同じ「心の痛み」を感じているでしょうか。世の中には、人生で成功し、満足しているように見える人々がいるでしょう。世の中の人々は、表面的には、何の問題もないように見えるかもしれませんが、実際は、心が傷ついていたり、悩んでいたり、疲れてしまっているのです。どんなに成功し、満足しているように見えても、キリスト無しの人生は空しく、本当の喜びも、満足も、希望もありません。そして、最後にはみな永遠の滅び(地獄)へと落ちてしまうのです。

私たちは、自分の必要、自分の問題、自分の生活、自分の幸せだけが優先事項となり、イエスを知らずに死んでいく人々に対して無関心になってはいないでしょうか。日本のクリスチャン人口は1%未満で、99%以上の人たちは、生きる意味を見出せず、希望も喜びもないまま、地獄へと向かっているのです。実際に、毎年、多くの人々が自らの命を絶っています。この現実について、どのように感じるでしょうか。

2.救われる人々が大勢いることを信じる

日本では、これまで様々な伝道が試みられてきましたが、救われてクリスチャンとなる人々の数は少ないままです。しかし、イエスは、「収穫は多い」(37)と言われました。「収穫」とは、イエス・キリストを信じて、救われる人々のことです。すなわち、イエスは、信じて救われる人々が大勢いると言っておられるのです。

また「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハ4:35)と言われました。この「畑」とは、この世のまだイエスを知らない人々、救われていない人々のことです。その「畑」が「色づいて、刈り入れるばかりになっています」ということは、それらの人々が福音を聞いて、イエスを信じて救われようとしているということです。

またパウロは、コリントで福音を伝えていた時、ユダヤ人たちからの妨害を受けました。その時、主は幻の中で、パウロに「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使18:9-10)と語られました。主は、パウロに、どんなに妨害する者がいたとしても、伝道が困難であっても、福音を語り告げるようにと言われたのです。なぜなら、そこには福音を聞いて、救われるべき人々がいるからです。

主は、私たちにも「収穫は多い」、「色づいて、刈り入れるばかりになっています」、「この町には、わたしの民がたくさんいる」と語っておられるのです。この日本にも、イエス・キリストを信じて、救われるべき人々が大勢いるのです。大勢の人々が福音を知らされ、救いに導かれることを待っているのです。

3.収穫の働き手となる

イエスは、「収穫は多い」と言われましたが、「働き手が少ない」とも言われました(37)。人々に福音を伝え、人々を救いに導く「働き手が少ない」のです。少ないのは「収穫」ではなく、「働き手」です。本当に足りないのは「働き手」です。それゆえ、イエスは、「人々が救われるように」祈りなさいと言われたのではなく、「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(38)と言われました。人々は、福音を聞かなければ、信じることは出来ません。人々に福音を伝える人がいなければ、福音を聞くことは出来ません(ロマ10:14)。必要なのは、人々に福音を伝える「働き手」なのです。「働き手」さえいれば、救いに導かれる人々は大勢起こされるのです。

イエスの言葉に従って、「働き手」が送られるように祈らなくてはなりません。しかし、実は、この祈りの答えは、私たち自身なのです。すなわち、私たちが「働き手を送ってくださるように」という祈りの答えなのです。イエスは、私たちが応答して「働き手」として立ち上がることを求めておられるのです。この「働き手」が多いほど、福音宣教の働きは前進します。

しかし、多くのクリスチャンは福音宣教に無関心であったり、人任せであったり、ただ祈っているだけであったり、何もせずに見ているだけです。そのため、福音宣教の働きが進んでいかないのです。主は、人々に福音を宣べ伝え、人々を救いに導く「収穫のため」の「働き手」を必要とし、求めておられます。預言者イザヤのように、自分を「収穫」の「働き手」としてささげましょう(イザ6:8)。

 

イエスが「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、「かわいそうに思われた」ように、キリスト無しに滅びに向かっている人々に対して、心に深い痛みを感じられる者となりましょう。そして、「収穫は多い」と言われたイエスの言葉を信じて、この日本でも大勢の人々が救いに導かれることを期待しましょう。さらに、「働き手を送ってくださるように」祈ると同時に、「働き手」として立ち上がり、人々に福音を宣べ伝え、人々をキリストの救いに導く者となっていきましょう。「収穫のため」の「働き手」として立ち上がり、「収穫」の「畑」に出て行きましょう。

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