20.5.24.

イエスは、復活された後「四十日の間」、弟子たちに現れ、「神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」(3)ました。そして、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなった」(9)のです。イエスが天に上げられたことには、3つの理由がありました。

1.私たちのために聖霊を遣わすため

イエスは、弟子たちに「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハ16:7)と語られました。この「助け主」とは、「真理の御霊」(ヨハ14:16-17)である聖霊のことです。イエスは、私たちに聖霊を送って下さるために、天に帰られたのです。

聖霊は、「もうひとりの助け主」と呼ばれていますが、「もうひとりの」とは、「もう一人の別のお方」という意味ではなく、「もう一人の同じお方」という意味です。聖霊は、イエスとは別のお方ではありますが、イエスと同じお方でもあるのです。ですから、「もうひとりの助け主」である聖霊が私たちと共におられるということは、イエスが私たちと共におられるということと同じことなのです。マコ16:19-20には、イエスは、「天に上げられ」、「神の右の座に着かれた」とありますが、同時に、地上の「至る所で」、「主は彼らとともに働き」とも書いてあります。イエスがおられる所は「天」なのか「地」なのか。答えは、その両方なのです。イエスは、聖霊によって、信じる者たちと「ともに働き」をしておられるのです。

もし、イエスが地上に残られたとしも、イエスがおられる場所は限定されてしまいます。しかし、聖霊は霊でから、場所に限定されることはありません。世界中どこででも、同時に、イエスは信じる者と常に共にいて下さるのです。ですから、イエスは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)とも語られました。このように、イエスが天に上げられたことは、私たちにとって「益なのです」。聖霊が私たちに送られ、いつでも、どこでも、主と共にいることが出来るからです。

2.私たちのために執り成すため

天に上られたイエスは、マコ16:19にある通り、父なる「神の右の座に着かれ」ました。そして、イエスは、そこで私たちのために日夜執り成しておられるのです(ロマ8:33-34)。私たちには日々執り成しが必要なのです。私たちを日夜訴えている者がいるからです。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」、「罪に定めようとするのはだれですか」とありますが、それは、悪魔(サタン)のことです(黙12:10)。イエスを救い主として信じた私たちは、罪が赦され、義とされ、神の子どもとされました。しかし私たちには肉の性質が残っていて、救われた後も、自分の弱さや愚かさによって、失敗してしまったり、過ちを犯してしまうこともあります。すると、「告発者」である悪魔(サタン)は、日夜私たちを「神の御前で訴え」るのです。

しかし、イエスは、十字架で「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られたように、今日も「神の右の座」において、私たちのために執り成しておられるのです(へブ7:24-25)。イエスは、最後の晩餐の席で、ペテロに「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:31-32)と言われました。イエスは、この後、ご自分が捕らえられた後、ペテロの忠誠心が試され、ペテロがイエスを3回知らないと否定してしまうことを知っておられました。それでも、イエスは、ペテロの「信仰がなくならないように」祈られたのです。

主は、私たちのためにも、「信仰がなくならないように」、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。それゆえ、私たちは、確信と平安と喜びもって歩むことが出来るのです。

3.私たちのために場所を備えるため

最後の晩餐の席で、イエスはご自分が天に行かれることを語られました(ヨハ13:33,36)。ペテロも他の弟子たちもみな、イエスの言われたことに動揺してしまったことでしょう。すると、イエスは「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハ14:1-2)と語られました。イエスは、この世を去って、天の父なる神の元に行く目的を語られました。それは、私たちのために「父の家に」「場所を備え」るためでした。

「わたしの父の家」とは、「天国」すなわち「パラダイス」(ルカ23:43)と呼ばれる場所です。「パラダイス」は「アブラハムのふところ」(ルカ16:22)とも呼ばれる「慰めの場所」です。そこは「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙21:4)場所です。イエスは「パラダイス」である「父の家」に私たちのために「場所を備え」ておられます。そして、「場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハ14:3)。これは、イエスの再臨のことを言っているのです。

イエスが天に上げられた時、「白い衣を着た人がふたり」(11)現れました。この人たちは、神から遣わされた「御使い」(天使)でした(ヨハ20:12)。彼らは、弟子たちに「天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(11)と言いました。天に上られたイエスは、いつの日か、再びこの世界に帰って来られるのです。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」(マタ24:36) 「だから、目をさましていなさい」(マタ24:42)と言われています。

 

イエスは、「天に上げられ」、父なる「神の右の座に着かれ」ました。それは、「もうひとりの助け主」である聖霊を注がれ、「私たちのためにとりなして」下さり、「場所を備え」るためでした。「天に上げられた」イエスは私たちを迎えるために帰って来られます。その日まで、主の再臨を待ち望みつつ、忠実な信仰生活を送りましょう。また、聖霊に満たされ、聖霊の力をいただき、福音を宣べ伝えていきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師