16.01.31

失われた人のために来られたイエス様

・主題聖句:ルカ19:10(ルカ19:1~10)

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10
この言葉は、イエス様が言われた言葉です。人の子とは、イエス様が自分自身を紹介するときに使われている表現の一つです。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが書いた4福音書において、イエス様は、81回、自分自身を人の子と言っています。(例えば、ルカ12:10
先日、私が働いている病院で、86歳の患者さんから、「人は何のために生きているのかしら。」と質問されました。注射をしている最中の急な質問でしたので、驚きましたが、「私は、クリスチャンなので、神様のために生きています。」と、お答えしました。患者さんは、「神という存在は、私には分からないけれど、最近、私は何かのために生かされている。ということが分かるようになった。」と言われていました。人は、何のために生きているのか?もし、同じ質問をされたら、皆さんは何と答えられるでしょうか?
ある人は、大切な家族のため、ある人は自分の夢をかなえるためと答えるかもしれません。
毎日が忙しく過ぎていく現代では、そんなこと考えたこともない、ばかばかしいという人もいれば、何のために生きているのか分からず、苦しくて自ら死を選ぶ人もいます。全世界を見るなら、戦争や貧困の中で、生きる意味を考える時間も余裕もなく、命の危機にさらされている人々もいます。
それに対し、人の子であるイエス様は、「失われた人を捜して救うために来た。」と、明確に言われました。イエス様は、「失われた人を捜して救うために」、生きていました。

1、 失われた人とは?

失われた人とは、一言で言うなら、神様との関係が失われている人のことです。
失われた人について、イエス様がこの言葉を言われた「ザアカイ」という人から、3つのポイントに絞り、見ていきます。ルカ19:1~4より。
① 神様との関係を失い、自分中心の生き方をしている。
ザアカイの職業であった取税人とは、市民から税金を取って、ローマ帝国に納めていた人を言います。ローマ市民が実際に納める金額より、高く取り上げ、自分のお金としていた人達でしたので、人々からは罪人と言われ、嫌われていました。ザアカイは取税人の中でも頭、ボスであったので、自分の利益を優先し、相当な金額を取っていたと考えられます。神様との関係を失うと、神中心から自分中心の生き方になります。この自分中心の生き方が、罪であり、神様との関係を悪化させ、最終的には神様との関係を失わせます。
② 神様との関係を失い、自信(自分)を失っている。
ザアカイは、背が低い人でした。背が低いゆえに、イエス様を見ることができませんでした。また、群衆もザアカイがイエス様を見られるように、譲ってはくれませんでした。人は外見や能力、あらゆることで人と比べて、競いあい、自信を失うことがあります。劣等感をもつことがあります。逆に、自信過剰となり、優越感をもつだけでなく、人を見下げてしまうこともあります。神様との関係を失うと、神様より周囲の評価が気になり、人々の評価に自分の生き方が左右されます。自分でも、自分がよく分からないという人もいるのではないでしょうか。
よくユースの女子は、背が高い人と結婚したいと話します。男子は、背が低く可愛い人が良いと言っています。ひとりひとり好みのタイプがあるのは、良いと思います。しかし、イエス様が人を選ぶ基準は好みのタイプでもなく、外見や能力ではありませんでした。主は、心を見られ、ありのままの姿を受け入れて下さいます。
③ 神様との関係を失い、飢え渇きがある。
失われている人、ザアカイには罪人とは別の姿がありました。取税人のボスであり、お金も権力もあったザアカイが、走って木に登る行動は、まるで小さい子どもがするような、プライドを捨てた行動です。主は、マタイ18:1~3において言われます。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国に入ることはできません。」
失われていた人、ザアカイは多くの富に囲まれていても、心の虚しさを感じていたのではないでしょうか。その心を満たすものを富に求めていたかもしれません。しかし、ついに心を満たして下さる方にお会いしました。イエス様です。

2、 イエス様と出会い、失っていたものを取り戻すザアカイ。

イエス様と出会い、ザアカイは変えられます。イエス様の関わり方とザアカイの変化も、また3つのポイントで見ていきます。ルカ19:5~8より。

① イエス様の呼びかけ

ルカ19:5を見ると、イエス様は、「ザアカイ」と名前で呼ばれています。ザアカイという名前には、「義人」あるいは、「きよい人」の意味があります。ザアカイには、素晴らしい名前がつけられていましたが、現実の生活は、かけ離れていました。けれども主はザアカイを、取税人や罪人と呼ばれたのではなく、ザアカイと呼ばれました。主は、ザアカイの本来の姿を知っておられました。ザアカイはイエス様がどのような方か知りませんでしたが、イエス様はザアカイの名前を知っており、イエス様の方から来られて、声をかけ、家にまで泊まってくださいました。
② ザアカイの応答
イエス様の言葉に応答し、急いで木から降り、大喜びでイエス様を家に迎えます。
ザアカイは、イエス様が来られ、声をかけられたとき、イエス様の言葉を拒むことはしませんでした。また、ただ喜んだだけでなく、大喜びでイエスを迎えたとあります。人々から罪人と呼ばれていたにも関わらず、神の御子と呼ばれるイエス様が家に来て下さるということは、ザアカイにとって大きな喜びでした。

③ ザアカイの変化

イエス様に出会ってから、ザアカイはイエス様を自分の主と認め、財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す人になった。
ザアカイは、悔い改め、イエス様を信じて、名前の通りに「義人」(正しい人)に変えられます。・ローマ5:19 ・第2コリント5:17
持っていた財産を正しく管理できる人となり、奪い取る人から与える人となり、失っていた本来のザアカイの姿や生き方を取り戻すことができたのです。

3、 イエス様は、失われた人を捜している。

イエス様がザアカイのところへ来られたように、イエス様は失われた人を捜しています。・マタイ18:12~14より。
99匹の羊を置いても、イエス様は1匹の羊を見つけ出すまで、捜し続けます。なぜ、そこまでして捜さなくてはいけないのでしょうか?失われた人が失われたままで、滅びることは、天の父なる神の心ではないからです。それほど、父なる神にとって、一人の魂・命は、尊く価値があり、宝物のようだからです。
失われた人・ザアカイに関わろうとするイエス様に対して、人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた。」とつぶやきます。(ルカ19:7)確かに、ザアカイは、イエス様に出会うまで、人々をだまし、人々から嫌われ、金を取っていた罪人でした。
しかし、イエス様はそんな罪人のため、失われている人のために来て下さいました。
人々から見下されていたあらゆる病人や悪霊につかれた人のためにイエス様は来てくださり、直してくださいました。イエス様は、深いあわれみをもって、手を伸ばし、触ると汚れるとされた病人にも触れてくださるお方です。
私たちクリスチャンも、イエス様に出会う前までは、同じような罪人であり、痛み苦しみの中にいた病人でした。それでも、主はあきらめず捜して見つけて下さいました。イエス様が捜して下さらなければ、今の私たちはいません。
詩篇103:1~5を皆さんで一緒に読みましょう。さん、はい。

4、 イエス様は、失われた人を救われる。

ルカの19:9、10より。
失っていた本来の姿を取り戻したザアカイに対して、イエス様は言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカ19:9
イエス様が、失われた人を捜すのは救うためです。
イエスキリストの十字架の死による贖い(あがない)は、私のためだった。と、口で告白し、信じることにより、救いを受け取ることができます。ローマ10:9.10
贖い(あがない)とは、買い取る、身の代金を払って身を引き受ける。という意味があります。イエスキリストは、私たちの罪のために、十字架にかかり、死なれ、自分の命と引き換えに、私たちを永遠の滅び(地獄)から救い出してくださいました。そして、十字架の死から3日目に、よみがえり、死に勝利して下さいました。救いを受け取ると、私たちも死に勝利し、永遠の命を与えられます。
ザアカイのように、イエス様からの救いへの声かけを拒まず、悔い改めて、イエスキリストを信じ、心に迎えるなら、誰でも救われます。イエス様は、私たちを愛し、救うために来て下さったからです。
もう一つ、この箇所で注目したいのが、「救いがこの家に来た。」という言葉です。救われたのは、ザアカイ一人だけなのに、「家に来た。」とイエス様は言われました。聖書には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
使徒16:31という言葉があります。実現まで、時間はかかるかもしれませんが、一人の人が救われるということは、家族全員が救われることにもなることです。

最後に、今月、軽井沢に向かうスキーのバス事故があり、印象に残った新聞の記事がありました。あの事故では、尊い15名の命が一瞬で失われました。新聞には、亡くなった教育学部の大学生の教授が、彼らについて「教育界における大切な宝物を失った。」と記事に書いていました。私は、この記事を見たとき、天の父なる神もまた、一人の魂がイエス様を知らないで失われていくときに、神の子どもとして生きるはずであった「大切な宝物を失った。」と悲しまれている。と思いました。ヨハネ3:16では、「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」と書かれています。
今は、いつどこで何が起こるか分からない時代です。そして、今は、恵みのとき、救いの日です。どうぞ、今日イエスキリストを信じていない人、信じようか迷っている人、洗礼を受けようか迷っている人は、ぜひイエス様を信じて、救いを受け取り、神様と共に歩んで下さい。そして、すでに救いの恵みを受けとっている人は、失われた人を捜して救う、主イエス様の生き方に、私たちも人生を捧げていきましょう。

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