17.02.12

失われた魂への情熱

ルカ15:3-7

教会はキリストの体であり、イエス様のお働きをします。ではイエス様のお働きとは何でしょうか。私たちが持つべき第一の目的は何でしょうか。ルカ15章の百匹の羊のたとえから学んでみましょう。

1.神様の罪人に対する愛と情熱を覚えよう

百匹の羊を飼う羊飼いは、九十九匹の羊を野原に残して一匹の迷い出た羊を探しました。羊飼いは神様であり、羊は私たち人間です。羊飼いから離れて迷い出た羊は、神様から離れて自分勝手に生きる人々であり、罪人です。つまり、神様が罪人を愛し、救い出したいという熱い願いを持っておられることを意味しています。

神様は私たち一人一人を愛しておられます。神様に従う正しい人を愛していますが、神様に従わないで自分勝手な道を歩み、滅びに向かっている人々をも愛しておられます。そしてその滅びゆく人々が悔い改めて救われることを強く願っておられます。この情熱は、神様と共に歩む正しい人々に対する情熱よりはるかに大きいのです。

罪人は自分では正しい道を歩んでいるつもりでも、それは滅びへの道です(箴言14:12)。これをそのまま見過ごしにしていたら、その人は悲惨な永遠の苦しみに至るのです。神様の罪人に対する愛は、深い悲しみと熱い情熱が込められています。私たちも、もし自分の子どもと連絡が取れなくなったとしたら、立派に生きているかどうかよりも、まず生きていてほしいと願うに違いありません。

神様は罪人を愛するがゆえ、ご自分の独り子を地上に送って下さいました(ヨハネ3:16)。イエス様が来られたのは、罪人を探して救うためなのです(ルカ19:10、マタイ9:13)。神様はご自分の独り子を犠牲にしてでも、滅びゆく人々を救いたいという、罪人に対する愛と情熱をもっておられるのです。

私たちクリスチャンは、イエス様を信じているからとか、正しい行いをしているからということで、神様が私たちだけを愛していると思ってはいませんか。神様の愛はイエス様を地上に送ったほどであり、それは罪人に対するものであるということを、覚えましょう。

2.私たちも罪人を愛する神様の愛と情熱を持とう

罪人の中にはひどい悪人もいることでしょう。このような人々を愛するということは、難しいことで、人間の力では不可能です。しかし、私たちには聖霊が注がれています。聖霊によってできるのです。

また、私たちもかつては罪人であったことを覚えましょう(エペソ2:1-6)。主は罪人の私たちを救ってくださいましたことを覚え(ローマ5:6-8)、私たちも罪人を愛しましょう。

良きサマリヤ人が死にかけたユダヤ人を助けたという話(ルカ10:30-37)がありますが、たとえ嫌いな人であっても、困っている人がいたら、自分だったらどうだろうという気持ちで隣人となり、愛し助けましょう(ルカ10:27b)。

3.犠牲を払って失われた魂を探しに出ていこう

羊飼いは、一匹の失われた羊を探しに、大切な九十九匹の羊を残して出ていきました。失われた魂を救うためには待っているだけではいけません。犠牲を払って「出ていく」ことが必要です。

「出ていく」ことの第一は、世の人たちと時間を過ごすことです。いつもクリスチャンはクリスチャンとだけ交わっていたら、外部の人たちを見捨てているのと同じです。

第二は、理解されるより理解することです。世の人々の気持ちを知ることです。世の人々に対して、聖書の話を無理やり聞かせて、言いたいことを言ってさよならでは救えません。まず相手をありのままで受け入れ、歓迎し、友となり、理解してあげることです。

第三は、相手の必要に応えることです。イエス様もみことばだけでなく、人々を癒されました。アメリカのある教会では、学校のペンキ塗りや掃除をしていたら、信頼され、子どもたちの貧困問題や相談相手も頼まれるようになり、子どもたちがたくさん救われました。東北や熊本の教会では、地震の被災者を助けていたら、信頼されて、福音を聞いてもらえるようになりました。

私たちが犠牲を払って世の中の滅びゆく魂を救うために出て行き、救いへと導くなら、神様は本当に喜んで下さるのです(ルカ15:5-7)。私たちも神様が願っておられるように、失われた魂に対する情熱をもって、救いへと導きましょう。