17.4.9.

平和の王なるイエス様を乗せたろばの子

マルコ11:1-10

イエス様は、「ろばの子」に乗ってエルサレムの都に入られました。
これは、イエス様がどのようなお方であるあるかを示す出来事でした。

1.イエス様は平和の王として来られた

イエス様が「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られたことは、
4つの福音書全てに共通して記されている重要な出来事です。
これは、旧約聖書のゼカリヤ9:9のメシヤ(キリスト)到来の預言の成就だったからです。
マタイは「これは、預言者を通して言われた事が
成就するために起こったのである」と説明しています。マタイ21:4
群衆は、「ホサナ」(今、お救い下さい)と叫んで、イエス様を大歓迎しました。
彼らは、イエス様をメシヤすなわち王として迎えました。Cf.Ⅱ列王9:13
しかし、彼らが考えていた王は、イスラエルをローマの支配から武力によって解放し、
再びイスラエル王国を建ててくれるメシヤ(キリスト)だったのです。
しかし、イエス様はそのような政治的・軍事的な王として来られたのではありません。
イエス様は、イスラエルをローマから解放する「戦いの王」として来られたのではなく、
私たちを罪と死の支配から解放する「平和の王」として来られたのです。
イエス様が戦争のための馬や戦車ではなく、「ろばの子」に乗って来られたということは、
イエス様が「平和の王」として来られたことを象徴していました。
しかし、群衆は、イエス様に対して間違った期待をしていました。
ですから、彼らは、イエス様が自分たちの期待に応えてくれないことが分かると、
この数日後には、イエス様に対して「十字架につけろ」(15:13-14)と叫んだのです。
結局、群衆は、自分たちに都合の良い王を求めていたのです。
自分たちの願いをかなえてくれる王、自分たちを幸せにしてくれる王を求めていたのです。
イエス様は、この世の王となるためではなく、
私たちを救い、私たちに真の平和をもたらす「平和の王」として来られたのです。

2.イエス様が与えて下さる平和

イエス様が私たちに与えて下さる平和とは、どのような平和なのでしょうか。
私たちは聖書から三つの平和があることを教えられます。
① 神との平和…神様との正しい関係、良い関係。
② 心の平和…神様から来る心の平和、どのような状況においても得られる平安。
③ 人との平和…神様による平和、人間関係における平和。
三つの平和の中で最も重要な平和が「神との平和」です。
「神との平和」は「心の平和」と「人との平和」の土台となるものです。
「神との平和」がなければ、何をしても「心の平和」も「人との平和」もありません。
今日、多くの人々が「心の平和」や「人との平和」を得るために様々な試みをしています。
しかし、この世のものによる平和は、一時的なものに過ぎません。
私たちにとって最もなくてはならない平和は「神との平和」です。
「神との平和」を得るためには、罪の問題が解決されなければなりません。
人がまだ罪の中にある内は、神様との敵対関係にあり、
どんなことをしても本当の平和はありません。「神との平和」がないからです。
その結果、「心の平和」も「人との平和」も得られないのです。
そんな私たち人間の罪を処分し、「神との平和」を持つことが出来るために、
イエス様は、私たちの罪を身代わりに負って、十字架で死んで下さいました。
それによって、人間と神様との間にあった敵意を処分して下さったのです。Cf.エペソ2:15
そして、神様との和解と平和をもたらして下さったのです。コロサイ1:19,20
私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様を信じる時に罪は赦されます。使徒10:43
そして、さらに義と認められます。ローマ10:10
信仰によって義と認められた人は、「神との平和」が与えられるのです。ローマ5:1

3.平和の王なるイエス様を乗せる

この「ろばの子」は、私たちクリスチャンのことをも暗示しています。

① 主は私たちを選んで下さった
イエス様は、格好の良い馬ではなく、見栄えもしないろばを選ばれました。
しかも、「まだだれも乗ったことのない」、役に立たない「ろばの子」を選ばれたのです。
私たちも、この「ろばの子」のように、見栄えのしない者、愚かな者、
見下されている者、取るに足らないような小さな者でした。
イエス様は、そのような私たちに目を向け、選んで下さったのです。Ⅰコリント1:27-28

② 主は私たちを解放して下さった
また、この「ろばの子」は、「戸口」に繋がれていました。
しかし、イエス様は「それをほどいて、引いて来なさい」と言われました。
私たちも、イエスを信じる時まで、様々なものに繋がれ、束縛されていました。
しかし、イエス様は、十字架の贖いの業によって、
私たちをあらゆる束縛から解放し、自由にして下さったのです。ガラテヤ5:1。

③ 主は私たちを召して下さった
イエス様は、弟子たちに「主がお入り用なのです」と答えるようにと言われました。
これは、イエス様からのただ一方的な召しでした。
この「ろばの子」は、メシヤをお乗せするという光栄な務めのために召されたのです。
同じように、主は、私たちを主の働きを担う者として召して下さいました。
イエス様は、ペテロに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(1:17)、
と語り掛けられたように、私たちにも語っておられます。

イエス様は、「ろばの子」に乗ると、エルサレムへと向かわれました。
「ろばの子」は、「平和の王」であるイエス様をお乗せするという光栄にあずかりました。
私たちも、「平和の王」であるイエス様をお乗せする者、
私たちに真の平和を与えて下さるイエス様を伝える者となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師