20.4.5.

受難週の木曜日、「過越の祭りの前」(1)、イエスは、弟子たちと共に「過越の食事」をとられました。その席で、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4)、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとってかられる手ぬぐいで、ふき始められ」(5)ました。イエスが弟子たちの足を洗われたことには、どのような意味があったのでしょうか。

1.イエスは愛を示して下さった

イエスは、弟子たちとの別れの時が近づいていることを知っていました。イエスは、これから、十字架にかかり、死ななければなりませんでした。その別れの前に、イエスは弟子たちに「愛を残るところなく」(1)表したいと願われたのです。

しかし、弟子たちは、それほどまでに愛される資格のある者たちだったのでしょうか。弟子たちは、全てを捨ててイエスに従い、約3年間、イエスと共に歩みました。しかし、彼らは、決して立派な信仰者たちという訳ではありませんでした。彼らには、欠点や弱さがあり、しばしば失敗してしまうこともありました。弟子たちの中には、イエスを裏切るイスカリオテのユダもいました。彼は、悪魔に心を支配され、イエスを裏切って、ユダヤ人に売り渡そうとしていました。また、ペテロは、イエスを知らないと3度も否定してしまいます。イエスは、全てをご存知でしたが、それでも弟子たちを心から愛していたのです。

イエスは、弟子たちに対する愛を、言葉だけではなく、行動で表したのです(Ⅰヨハ3:18)。それは、弟子たちの足を洗うことによってでした。他の人の汚れた足を洗うということは、誰もやりたくないことでしょう。それは、その人に対する愛がなければ、出来ないことです。イエスは、弟子たちに対する愛を、彼らの足を洗うことによって表されたのです。私たちも不完全な者であり、欠点や欠点があり、しばしば失敗したり、イエスを裏切ったり、悲しませてしまうこともあります。しかし、イエスは、それら全てをご存知の上で私たちを愛して下さっているのです。

2.イエスはしもべとなられた

ユダヤでは、外から帰って来た時には、汚れた足を洗うことになっていました。そして、「足を洗う」のは、「しもべ」する仕事でした。しかし、弟子たちの中には、「しもべ」となって足を洗おうとする者はいませんでした。むしろ、弟子たちは、「誰が一番偉いか」ということを議論していました(マコ9:34)。そして、実際に、自分をイエスの次の位にして欲しいと頼んだのです(マタ20:20-21)。

その時、イエスは、弟子たちに「仕える者になりなさい」、「しもべになりなさい」と言われました(マイ20:26-28)。そして、イエスは自らへりくだり、「仕える者」、「しもべ」となられたのです。イエスが「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれ」(4)、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、・・・手ぬぐいで」(5)拭く姿は、イエスが「仕える者」、「しもべ」となられたことを表していたのです。

イエスは、神の御子であり、神ご自身でした。イエスは、天において、神として栄光に輝く、聖なるお方でした。しかし、私たち人間を救うために、その高い位を捨てて、私たちと同じ人間の姿となって、この世界に来て下さいました。イエスは、王として来られたのに、家畜小屋で産まれ、飼葉桶に寝かされました。イエスは、何の罪もない聖い神の御子でしたが、私たちの罪を負い、身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。イエスは「仕える者」、「しもべ」となり、「自分のいのち」も与えて下さいました(ピリ2:6-8)。

3.イエスは罪をきよめるお方

イエスがペテロの足を洗おうとすると、ペテロはイエスに「決して私の足をお洗いにならないでください」(8)と言いました。それに対して、イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8)と答えられました。慌てたペテロは、今度は「私の足だけではなく、手も頭も洗ってください」(9)と言いました。それに対して、イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」(10)と答えられました。イエスが言われたことには、どんな意味があるのでしょうか。

この「足を洗う」という行為には、「罪の赦し」、「きよめ」が意味されているのです。イエスを信じた時、私たちの罪は赦され、私たちはきよめられました。そのしるしとして、私たちは水のバプテスマ(洗礼)を受けます。これが「全身きよいのです」という状態です。しかし、罪を犯すことのない完璧な人間になったということではありません。私たちの内には、まだ罪深い肉の性質が残っています。そのため、私たちは、自分が行いたいと思っている良いことを行うことが出来ず、かえって自分が行いたくない悪いことを行ってしまうのです(ロマ7:18-19)。

そのような弱さのため、過ちを犯したり、失敗してしまうこともあります。その場合、犯してしまった罪を告白し、その罪について赦していただけばよいのです。ちょうど道を歩いているうちに汚れてしまった足を洗うのと同じです。イエスは、私たちの罪を赦し、私たちを悪からきよめて下さいます(Ⅰヨハ1:9)。

 

イエスは、私たちを愛し、私たちを救うためにへりくだって来られ、十字架にかかって死なれ、私たちの罪を赦しきよめて下さる方です。イエスの愛を受け取り、イエスを救い主として信じ、罪を赦しきよめていただきましょう。また、イエスは、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。「互いに足を洗い合う」とは、私たちが互いに愛し合うこと、互いに仕え合うこと、互いに赦し合うことです。私たちが互いに愛し合い、仕え合い、赦し合うところに、祝福が注がれるのです(17)。