枯れたいちじくの木

マタイ21:18-19

21.3.14.

イエスはエルサレムへと向かう途中、いちじくの木を枯らすという奇跡を行いました。この出来事は、理解するのが難しいですが、何を教えているのでしょうか。

1.イエスは実のないいちじくの木を枯らした

18節で「エルサレムに行くこと」が「都に帰る」と表現されています。エルサレムの神殿は、イエスにとって自分の家のような存在だったからです(ルカ2:49マタ21:13)。その「途中」、イエスは「空腹を覚えられ」ました。イエスは神ですが、私たちと同じ人間の姿になって、肉体をとって来られました。ですから、私たちと同じように、空腹や渇き、また疲れも覚えることがありました。

イエスが道を進むと、「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれ」(19)ました。しかし、「葉のほかは何もないのに気づかれ」(19)ました。そこで、イエスはその「いちじくの木」に向かって、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」(19)と言われました。「すると、たちまちいちじくの木は枯れた」(19)と書いてあります。しかし、マル11:13には「いちじくのなる季節ではなかったからである」と、「いちじく」の実が実っていなかった理由が書いてあります。それなのに、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言うのは、酷いのではないかと思う人もいるでしょう。

前日の「宮きよめ」の時も、イエスの過激な姿が見られましたが、なぜ、普段は優しいイエスが、このような酷いことを言われたのでしょう。イエスは、実を食べたかったのに、実がなかったので、不機嫌になったのでしょうか。あまりにも「空腹」だったので、苛立っていたのでしょうか。

2.イエスは悔い改めの実を求めておられた

この出来事は、比喩的、象徴的な出来事だったのです。聖書で、イスラエルは「いちじくの木」や「ぶどうの木」に例えられています(ホセ9:10)。預言者エレミヤミカは、罪を悔い改めず、神に立ち返らないイスラエルを実を結ばない「いちじくの木」に例えて嘆いています(エレ8:13ミカ7:1)。やがて、イスラエルの民は、自分たちの罪を悔い改めて神に立ち返らなかったため、実際に神の裁きを受け、バビロニア帝国によって滅ぼされてしまいました。イスラエルの民の中に「悔い改めの実」を見ることが出来なかったからです。

イエスが「いちじくの木」に「近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた」とあります。これは、キリストがイスラエルの民のところに来られたのに、人々は悔い改めてキリストを信じ受け入れなかったということです。つまり、彼らの中に「悔い改めの実」が見られなかったということです。「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」という言葉は、「悔い改めの実」を結ばないイスラエルの民に対する裁きでした。

イエスは、エルサレムの神殿の崩壊を預言されましたが(マタ24:2)、約40年後のAD70年、エルサレムの神殿は、ローマ軍によって破壊され、イスラエルは滅ぼされ、ユダヤ人たちは世界中に離散することになったのです。イエスが求めておられたのは、「いちじく」の実ではなく、「悔い改めの実」であったのです。すなわち、イエスを主と信じ受け入れ、イエスに従う者となるということです。

3.イエスにとどまって御言葉の実を結ぶ弟子となる

主は、私たちにも「実を結ぶ者」となることを求めておられます。イエスは、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハ15:8)と語られました。「多くの実を結」ぶということは、イエスの「弟子となること」です。「多くの実を結ぶ」ためには、「イエスにとどまる」ことが必要です(ヨハ15:4-5)。

① イエスを主として受け入れる

イエスにとどまる」とは、「イエスを主として信じ受け入れる」ことです。Cf.Ⅰヨハ4:15。神から離れた状態は、霊的に死んでいる状態です(エペ2:1-2)。しかし、イエスを信じることによって、霊的に生き返らされます(エペ2:4-6)。霊的な命が与えられることによって、多くの実を結ぶ者へと変えられるのです。

② イエスとの交わりをもつ

イエスにとどまる」とは、「イエスとの交わりを持つ」ということです。イエスとの「関係」はあっても、イエスとの「交わり」を失ってはいないでしょうか。イエスとの交わりがなくなると、霊的な力が失われ、喜びが失われます。そうなると、奉仕は義務的になり、不平不満を言い、人を裁くのです。マリヤのように、主の元に行き、主との親しい交わりを持つことが必要です(ルカ10:38-42)。

③ イエスの言葉に従う

イエスにとどまる」とは、「イエスの言葉に従う」ということです。イエスは「ぶどうの木のたとえ」の中で、このように言われました。「あなたがたがわたしのことばにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。」(ヨハ15:7)。これは、単に、御言葉を読んだり、学んだり、覚えるということではありません。御言葉を実行するということであり、それがイエスにとどまることなのです。Cf.Ⅰヨハ3:24

聖書の中で、「実を結ぶ」ということは、「実行する」ということを意味しています。「言葉」だけで「実行」がないのは、「」だけで「」のない「いちじくの木」と同じです。「多くの実を結ぶ」とは、「御言葉を実行する」こと、「御言葉の実を結ぶ」ことです。私たちが「イエスの弟子」となり、「御言葉の実を結ぶ」ことが出来るのです。

 

主は、私たちが「イエスの弟子」、「御言葉の実を結ぶ者」となることを望んでいます。そのためには、「イエスにとどまる」ということが必要です。それは、「イエスを主と信じ」、「イエスと交わり」、「イエスの言葉に従う」ことです。私たちが「多くの実を結ぶイエスの弟子」となることによって、主の栄光が現わされ、主の御名が讃えられるようになるのです。「実を結ばない者」ではなく、「多くの実を結ぶ者」となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師