16.11.27.

水をぶどう酒に変える主

ヨハネ2:1-11

イエス様が最初に行われた奇跡は、水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。
どのようにして、この奇跡は起こされたのでしょうか。
この奇跡は、イエス様について、どのようなことを教えているのでしょう。

1.必要を満たして下さる主 – 主に必要を求める

婚礼の宴会の最中に大問題が起こりました。客に出すぶどう酒が切れてしまったのです。
宴会中にぶどう酒がなくなってしまうということは、客に対して大変失礼なことであり、
婚礼の主催者にとって大きな恥であり、後々まで不名誉なこととして残ることでした。
宴会でぶどう酒がなくなったなら、普通はお店にぶどう酒を買いに行ったり、
お店に注文して届けてもらったり、近所の人から分けてもらったりします。
または、「宴会の世話役」のところに行って、ぶどう酒がなくなったことを報告し、
なんとか問題を解決してもらうようにするでしょう。
しかし、この問題が起こった時、マリヤは、先ずイエス様のもとに行ったのです。
なぜなら、マリヤは、イエス様ならこの問題を何とか解決して下さる、
イエス様が全ての必要を満たして下さると信じたからです。
それで、マリヤは、イエス様に「ぶどう酒がありません」と必要を訴えました。
私たちも、毎日の生活や人生の中で、欠乏や必要、弱さを覚える時があります。
そのような時、私たちはどのような行動を取るでしょうか。
人間的に考えて、自分の知恵や努力で何とか問題を解決しようとしたり、
人を頼って問題を解決してもらおうとしたりはしないでしょうか。
しかし、私たちが先ず助けを求めに行くべきところは、イエス様のもとです。
なぜなら、イエス様は、私たちの必要を満たして下さるお方だからです。
マリヤが「ぶどう酒がありません」と、必要をイエス様に訴えたように、
私たちも、主の御前に進み行き、主に必要を訴え、
主の助け、主の導き、主の力、主の知恵を祈り求めましょう。詩篇50:15。ピリピ4:19

2.ご計画を持っておられる主 – 主に全てを委ねる

イエス様は、マリヤに「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。
これは、「私が栄光を現す時はまだ来ていません」という意味です。
イエス様が神の御子として、栄光を現す時は、十字架の死と復活においてでした。
イエス様が栄光を現そうとしておられたのは、将来の十字架の死と復活においてでした。
しかし、マリヤは、この婚宴の場で、栄光(奇跡)が現されることを願ったのです。
イエス様の栄光の現れ方について、イエス様とマリヤの考え方がだいぶ違っていました。
しかし、この時、マリヤは、イエス様の言葉の意味を悟りました。
そして、自分の願いや考えを押し付けるのではなく、全てを委ねる信仰を持ちました。
それで、マリヤは「手伝いの人たち」に言いました。
「あの方の言われることを、何でもしてあげてください。」
主が栄光を現す方法と、私たちが願う方法は違うことがあります。イザヤ55:8,9
また、私たちが願う時と主の御心の時とは違うこともあります。
私たちは自分が考えている方法が最善だと考え、自分の願いが全てだと考えています。
しかし、大切なことは、神様の方法、神様の時に委ねるということです。
主の時、主の方法が最善の時であり、方法なのです。伝道3:11。エレミヤ29:11
主は、私たちのためにご計画を持ち、私たちの人生を最善へと導いて下さるお方です。
イエス様が「言われることを、何でも」する者となりましょう。

3.不思議をなさる主 – 素直に主に従う

イエス様は、「手伝いの人たち」に、「水がめに水を満たしなさい」と言われました。
「水がめ」の水は「ユダヤ人のきよめ」の儀式用の水で、
家に入る時に足を洗うためと、食事の前に手を洗うための水です。
「手伝いの人たち」は、イエス様に言われるまま、「水がめを縁までいっぱいに」しました。
「八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめ」は、かなり大きなものです。
それも、一つや二つではなく、「六つ」全部に「縁までいっぱいに」水を入れたのです。
しかし、「重い」、「大変だ」、「疲れた」と不平不満も言わず、黙々と作業を行いました。
すると今度は、イエス様は、「さあ、今くみなさい。
そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われました。
それに対して、聖書は、「彼らは持って行った」と簡単に事実だけを書き記しています。
私たちは、人間的に考えて、「最善」、「合理的」、「効果的」と思われることを行います。
しかし、それが神様の方法であるとは限らないのです。
神様は私たちには「愚か」、「無駄」、「不合理」と思われる方法で働かれることがあります。
神様の愚かさ(人間的に愚かと思えること)は、人間の賢さよりも賢いのです。
私たちは、もっと神様が働かれる余地を持つことが必要なのではないでしょうか。
しばしば、あまりにも人間的に考え過ぎたり、配慮し過ぎたりすることはないでしょうか。
ルールやプログラムやスケジュールをがっちりと立て過ぎてしまって、
それに縛られて、神様が働かれる余地がなくなってしまっていることはないでしょうか。
たとえ、愚かなように見えても、無駄なように思えても、理解出来ないことでも、
「主が言われることだから」ということで、主に従うことが大切です。

何も知らない「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わって」、とても驚きました。
なぜなら、それは最高級のぶどう酒だったからです。
主は、私たちの必要をも満たして下さるお方です。
マリヤが「ぶどう酒がありません」とイエス様に必要を訴えたように、
私たちも主のもとに行き、主に自分の必要を訴え、求めましょう。
また、主は私たちにご計画を持っておられます。
ですから、主を信頼し、主に全てを明け渡し、委ねましょう。
そして、愚かに見えても、無駄に思えても、理解出来なくても、素直に主に従いましょう。
イエス様によって、何の味もないただの「水」が「良いぶどう酒」に変えられたように、
主は、何の意味もない虚しい人生を、意義のある最高の人生に変えられるのです。
水をぶどう酒に変える奇跡を、今日でも、主は、私たちの人生の中に起こされるのです。

Filed under: 伊藤正登牧師