熱くあってほしい(前)
黙示3:14-22

21.10.10.
アジアの7つの教会の7番目の教会は「ラオデキヤ教会」です。ラオデキヤは商業と金融で栄え、非常に富んでいました。ラオデキヤ教会はどのような教会で、どのようなメッセージが語られたのでしょう。
1.真実で万物の根源であるキリスト : 真実で創造者なる神(14)
キリストについて、「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」(14)と言われています。「アーメン」とは、ヘブル語で「真実」、「本当に」という意味です。「忠実で、真実な証人」は、「何の嘘も偽りもない信頼出来る方」、すなわち「真実な方」という意味です。キリストは、「真実な方」すなわち「まことの神」(イザ65:16)なのです。
また、「神に造られたものの根源である方」とは、「創造の源なる方」という意味です。キリストは万物より先に存在し、万物はキリストによって造られたのです(コロ1:15-17)。キリストは、「真実な方、万物の根源である方」、「真の神、創造者なる神」です。
2.叱責の言葉 : あなたはなまぬるい(15-17)
ラオデキヤ教会には、賞賛の言葉はなく、叱責の言葉しかありませんでした。
① なまぬるい教会となったラオデキヤ教会(15-16)
主は、ラオデキヤ教会に厳しい叱責の言葉を語りました。ラオデキヤ教会は、信仰的に「なまぬるい教会」であると非難されました。「なまぬるい」とは、熱くもなく、冷たくもない、どっちつかずの中途半端な状態です。ラオデキヤ教会の信者たちは、普通に信仰生活を送っていたでしょう。普通に教会で礼拝をささげ、御言葉を学び、祈り、奉仕や伝道もしていたでしょう。しかし、それらは表面的、形式的なものでした。本当に心から主を愛しているのか、信じているのかは、はっきりしませんでした。主は、「冷たくもなく、熱くもない」中途半端な生ぬるい状態を喜ばれません。だらか、主は「わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われました。
② なまぬるい教会となった原因(17)
ラオデキヤ教会から熱心さを奪い、なまぬるくさせた原因は、「富」と「豊か」さでした。ラオデキヤの人々は、自分たちの豊かさを誇り、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っていました。ラオデキヤ教会も、経済的・物質的繁栄と豊かさの中にあったのでしょう。また、他の町のように、激しい迫害があったわけでもありません。特に問題もなかったので、主を求めて祈ったりする必要性も感じませんでした。それで、主に祈ったり、主を求めたりすることがなくなり、信仰が生ぬるくなってしまったのです。全ての源である主から遠く離れてしまうと、信仰は生ぬるくなってしまいます。この世のものを求めれば求めるほど、主に背を向け、主から離れていき、信仰がなまぬるいものとなっていきます。逆に、主を求め、主に近づけば近づくほど、この世のものに背を向け、信仰は熱く燃やされていくのです。
③ なまぬるい教会の状態(17)
主は、ラオデキヤ教会が実際には「みじめで、哀れ」であると言われました。そして、彼らは、「実は自分が…貧しくて、盲目で裸の者であることを知らない」と言われました。
a) 貧しい
ラオデキヤ教会は、経済的物質的に豊かでしたが、精神的には貧しかったのです。彼らは、本当の喜び、満足、感謝がありませんでした。彼らの喜び、満足、感謝は、経済的物質的な豊かさに依存したものでした。経済的物質的豊かさを失うと、喜び、満足、感謝、平安も失われてしまうものでした。ですから、絶えず豊かさを失う不安につきまとわれ、更なる豊かさを求めるようになったのです。つまり、彼らは、貧しかったのです。
b) 盲目である
主は、ラオデキヤ教会の信者たちに対して「盲目」であると言われました。霊的な目が閉ざされてしまっていたということです。目に見える一時的なものばかりに囚われていて、目に見えない永遠に続くものに心の目が閉ざされていたのです。Cf.Ⅱコリ4:18。彼らは、目先の一時的な喜びや楽しさだけで満足し、本当に価値あるもの、信仰的・霊的に大切にしなければならないものが分からなくなっていました。
c) 裸である
主は、ラオデキヤ教会の信者たちに対して「裸の者」だと言われました。聖書では、「裸」であるとは、「恥ずかしい状態、生まれながらの状態、肉的な状態、罪があるままの状態」を意味します。Cf.創3:7、9:21-23。ですから、ラオデキヤ教会の信者たちが「裸の者」であったということは、彼らが自分の肉の欲望のままに歩んでいたということだったのでしょう。この世の富を求め、それを楽しむような生き方をしていたのでしょう。つまり、ラオデキヤ教会は、世俗的な教会となっていたのです。
ラオデキヤ教会は、この世の富と豊かさに惑わされ、それによって心満たされ、主にある本当の富と豊かさを見失ってしまいました。そして、益々この世の富と豊かさを求め、それを楽しみ、次第に主から心が離れてゆき、信仰が生ぬるくなってしまったのです。
私たちもこの世の富や豊かさによって、霊的に盲目となり、貧しくなり、裸の者になってしまっていないでしょうか。この世の富や豊かさを否定するわけではありません。しかし、それらは本当の喜び、満足、幸いをもたらすものではないのです。真実で万物の根源である主から離れてしまっては、何も得るものはないのです。
主は、「冷たいか、熱いかであったほしい」と語られました。勿論、主が求めておられるのは、信仰が熱く燃やされているということです(ロマ12:11)。主を求め、聖霊に満たされ、信仰の炎を燃やされ、主に仕えていきましょう。
Filed under: アジアの7つの教会へのメッセージ • 伊藤正登牧師