19.6.16.

「放蕩息子の例え話」の中心人物は放蕩息子ではなく、彼を受け入れた父です。

この父を通して、父なる神がどのようなお方であるかが示されています。

1.父なる神は人間に意志を与えておられる

弟は、父に「私に財産の分け前を下さい」(12)と言いました。「財産の分け前」とは、父が亡くなった後に受け取る遺産です。すると、父は、怒ることも咎めることもなく、「財産の分け前」を与えてしまいました。そして、「いく日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った」(13)のです。弟が「遠い国に旅立った」のは、今の生活から逃げ出すためだったかもしれません。弟は、今の生活から逃げ出して、どこか「遠い国」へ行けば、幸せになれるのではないかという淡い希望を抱いたのでしょう。単なる現実逃避でした。この時も、父は、家に留まっている方が絶対に幸せだと言って、弟息子を強制的に行かせないようすることはしませんでした。

なぜ、この父は、弟を叱ったり、彼の要求を拒まなかったのでしょう。この父は、あまりにも優し過ぎ、寛大過ぎるのではないでしょうか。この父は、大人となった息子に、自分の人生を自分で選ぶ自由を与えたのです。私たちの父なる神も、私たちに自分の人生を自分で選ぶ自由を与えておられます。神は、正しい事と間違っている事、良い事と悪い事を示しておられます。そして、正しい事、良い事を選ぶようにと教えておられます。その上で、私たちの自由意志を尊重し、私たちに選択を任せておられるのです。それは、神が彼らに自由を与え、自分の意志で神に従うようにされたからです。父なる神は、人間が自分の意志で神に従うようことが出来るようになるために、私たち人間に自由意志を与え、私たちの意志決定や選択を尊重しておられるのです。ただし、自分が選択した結果は、自分が責任を持たなくてはなりません(ガラテヤ6:7-8)。

2.父なる神は人間の回心を待っておられる

「遠い国に旅立った」弟は、「そこで放蕩して湯水のように財産を使って」しまいました(13)。何もかも失い困っている時、「大ききんが起こり、彼は食べるものにも困り始め」(14)ました。落ちぶれた弟から人は去り、彼は孤独となり、誰からも助けてもらえませんでした。「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた」(15)とあります。彼はあまりにも空腹で、「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」(16)と思うほどでした。

弟は、墜ちるところまで墜ちたとき、やっと目が覚め、自分の過ちに気づきました。聖書は、その気付きのことを、「我にかえった」(17)と言っています。弟は、何もかも失い、助けてくれる真の友もいなかったことに気が付きました。そして、父の家にいることが、実は本当に幸いなことなのだということに気付いたのです。そして、ついに父の家に帰る決心をし、道々、父への謝罪の言葉も考えました(18,19)。弟は、ボロボロの身なりで、お腹を空かせ、裸足でトボトボと歩いていたことでしょう。また、父が怒っているのではないか、父に受け入れられるか不安もあったことでしょう。

「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(20)のです。父は、決して息子を見捨てたり、見放したり、忘れてしまうことはありませんでした。息子がどんなにどうしようもない人間であっても、父は、息子の帰りを待ち続けたのです。私たちの父なる神も、ご自分から離れ、背を向けて、罪の中を自分勝手な生き方をしている人間を決して見捨てたり、見放したりせず、人間が罪を悔い改めて帰って来ることを待っておられるのです(エゼキエル18:23)。

3.父なる神は立ち返る者に恵みを与えて下さる

父は、召使たちに「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」(22) と言いました。

「着物」を着せるとは、義とする(罪のないものとする)ということです。「着物」とは、私たちの裸、すなわち私たちの恥を覆う物です。神は、アダムとエバの裸の恥を覆うために、「皮の衣」(創世3:21)を用意されました。その「衣」は、動物の血を流して作られた「皮の衣」でした。同様に、神は、私たちの罪の恥を覆うための「着物」を用意して下さいました。その「着物」は、十字架で血を流された「キリスト」です。この「着物」を着せられるということは、キリストを信じて、義とされるということです。キリストを信じる者は、罪のない者、すなわち義とされるのです(ガラテヤ2:16)。

「指輪」をはめさせたということは、子どもの身分の回復を意味しています。「指輪」は、その人の地位を証明するもので、印鑑と同じ役割もありました。父が弟息子に「指輪」をはめさせたということは、弟息子が本当に自分の息子であるということを証明するものであったのです。同様に、私たちも、イエスを信じた時に「神の子ども」(ヨハネ1:12)とされました。

「くつ」を履かせるとは、奴隷ではなく、自由人であるということでした。当時、奴隷は、「くつ」を履かず、裸足で生活させられていました。弟息子は、「くつ」を履かせられ、もう奴隷ではないと、宣言されたのです。同様に、私たちは、イエスを信じた時に、罪から解放され、もはや罪の奴隷ではなく、自由が与えられたのです(ガラテヤ5:1)。

そして、父は、弟のために「宴会を始めた」(24)のでした。父は、罪を犯して落ちぶれた弟息子を無条件で受け入れたのです。全ての罪を赦し、子どもとして受け入れ、自由を与え、良いものを与えて下さるのです。

私たちは神について、「怖い神」というネガティブなイメージを持つのではなく、「良い父」という良いイメージを持たなければなりません。父なる神は、良い父であり、良いことをし、良いものを与えて下さいます(マタイ7:11)。神の愛と恵みと赦しが分かるなら、神の元にいることが幸いなことだと分かります。神に感謝し、神を愛し、神をとともにあることを喜び、喜んで神に従うようになります。神に対する健全な思いをもって、感謝と愛をもって神の元に行き、神に従いましょう。