父の約束を待ち望む

使徒1:3-8

21.5.2.

イエスは、弟子たちに、「全世界に出て行き、すべての…者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じました(マルコ16:15)。しかし、その前に「父の約束を待ちなさい」と命じられました。

1.聖霊が与えられる約束

イエスは、十字架にかかられる前に「父の約束」を語っておられました(ヨハ14:16-17)。この「父の約束」とは、「御霊」すなわち「聖霊」が与えられるという約束でした。

聖霊は、「もうひとりの助け主」(アロス・バラクレートス)と呼ばれています。ギリシヤ語では、「もうひとつの」という言葉が二つあります。一つは「ヘテロス」で、「性質の異なるもうひとつのもの」を意味します。もう一つは「アロス」で、「性質の同じもうひとつのもの」を意味します。「もうひとりの助け主」の「もうひとりの」は「アロス」です。ですから、この「もうひとりの」とは「性質の同じもうひとりの方」という意味になります。「真理の御霊」である聖霊は、「イエスと同じ性質を持ったもうひとりの方」なのです。聖霊は、イエスと同じ性質、同じ力を持ったお方であるということです。

また、「助け主」は、ギリシヤ語で「パラクレートス」といいます。新改訳聖書欄外には「援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人」とあります。「パラクレートス」とは、「弁護者(法廷弁護士)」、「慰める者」、「励ます者」、「そばに寄り添う方」、「味方となる方」という意味があります。ですから、聖霊は、私たちのそばに寄り添い、私たちを慰め、励まし、味方となり、とりなして下さるお方なのです。

2.聖霊の働き

聖霊は、私たちの内にあって、どのような働きをされるのでしょうか。

① 聖霊は全てのことを教え、イエスの言葉を思い起こさせる(ヨハ14:26)

弟子たちは、イエスの語る全てことを理解することが出来ませんでした。しかし、弟子たちが聖霊を受けた後、イエスの語っていたことを思い出し、その意味を理解することが出来るようになりました。そのように、聖霊は、私たちにイエスの言葉を思い起こさせ、理解させて下さいます。

② 聖霊はイエスについて証する(ヨハ15:26)

イエスは、弟子たちもやがて迫害を受けるようになると予告されました(15:18-25)。しかし、迫害の中でも、聖霊が証させて下さると言われたのです。Cf.マタ10:19-20。聖霊は、私たちにキリストについて示して下さり、キリストを証させて下さるのです。

③ 聖霊は罪と義と裁きについて誤りを認めさせる(ヨハ16:8)

「罪」とは、神を信じないで、自分中心に生きることです。聖霊は、その人の内にある罪深さを示し、罪の自覚を持たせます。

私たちが神の前に「義」と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみです(ガラ2:16エペ2:8-9)。聖霊は、私たちが自分の行いで「義」となれないことを示されるのです。

聖書は、人は「死後にさばきをうける」(ヘブ9:27)ことと、「永遠の滅び」があることを教えています(黙20:11-15)。聖霊は、「さばき」と「滅び」があることを教えて下さいます。

④ 聖霊は全ての真理に導く(ヨハ16:13)

イエスは、天に帰られる前に、弟子たちに更に多くのことを語りたかったのですが、弟子たちには、それらを理解したり、受け入れたりすることが出来ませんでした。しかし、後で与えられる聖霊が弟子たちを「すべての真理に導き入れ」て下さるのです。特に、それは「やがて起ころうとしていること」であると言われています。すなわち、イエスの十字架の死、復活、昇天、さらに再臨と神の国の完成についてです。

⑤ 聖霊はキリストの栄光を現す(ヨハ16:14)

聖霊は、イエス・キリストを指し示し、イエス・キリストの栄光を現します。

3.聖霊の満たしを求める

イエスは、弟子たちに約束された聖霊を待ち望むように命じられました。しかし、それは聖霊に満たされるようにということであったのです。なぜなら、5節で、イエスは「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と語っておられるからです。「バプテスマ」とは「浸す」という意味のギリシヤ語です。「聖霊のバプテスマ」とは、聖霊に浸されること、すなわち「聖霊の満たし」のことです。

聖霊が私たちの上に「臨まれ」、聖霊に満たされる目的は、私たちがイエスの「証人」になるための「力」を受けるためでした(使1:8)。「証人」という言葉は、ギリシヤ語では「殉教者」という言葉が使われています。「殉教者」とは、信仰のために命をささげる人のことです。ですから、「証人」とは、命をかけて福音宣教をする人のことです。それは、人間的な力で出来ることではありません。聖霊の「力」が必要です。聖霊が私たちの上に「臨まれ」、聖霊に満たされる時、私たちは、イエスの「証人」になるための「力」を受けるのです。その「力」という言葉は、ギリシヤ語で「デュナミス」で、ダイナマイトの語源ともなった言葉で、大きな力を意味しています。

最後の晩餐の席で、ペテロは、決してイエスを裏切ることはないと宣言していました。しかし、ペテロは3度もイエスを知らないと、否定してしまいました。しかし、ペンテコステの日に、ペテロが聖霊に満たされると、ペテロは変えられ、人々の前に出て、大胆にイエスのことを語りました。ペテロは聖霊に満たされて、力強い主の「証人」に変えられたのです。

 

聖霊の満たしは、自動的にではなく、求める者に与えられるのです(ルカ11:9, 13)。心を開き、聖霊の満たしを求めて、祈りましょう。

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