18.6.17.

6月第三日曜日は、「父の日」です。私たちは、お父さん方に対する感謝と尊敬を忘れてはいけません。十戒には、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)とあります。なぜなら、父親は、神によって、子供たちの上に立てられた権威者だからです。父親は、神の代理人として、子どもたちを養い、育て、守り、教え、導きます。
では、神の代理人として、父親にはどのような務めと責任があるのでしょうか。父親の大切な務めの一つは、働いて生活費を稼ぎ、家族を養うことです。しかし、仕事中心、会社第一となり、家庭が無視され、犠牲になってしまい、崩壊してしまうなら、何の意味もありません。一生懸命働いて、家族を養うことは、大切ですが、それだが父親の務めなのではありません。
アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれ、私たちの信仰の模範です。神がアブラハムに語られた言葉から、父親の務めを学ぶことが出来ます。創世18:19に、父親の家庭での務めと責任が述べられています。それは「子らと、彼の後の家族」に「主の道を守らせ、正義と公義とを行わせる」ことです。これこそが、最も大切な父親の務めなのです。

1.神を恐れることを教える

まず、父親は、神がどのようなお方であるかを子供に教えなければなりません。伝道12:1。創造主なる神を知らなければ、人生の意味も生きる価値も見出せません。自分が何のために生きているのか分からず、空しい人生を送ることになってしまいます。
私たちは、子供たちに、唯一で、全てのものを造られた創造主なる神を教えなければなりません。そして、私たちが神の最高作品として、神の栄光を現わす存在として造られたこと。神は、全知全能なるお方であり、万物を支配しておられるお方であること。神は、聖く義なるお方であること。神は、愛なる方であり、憐みと恵みに満ちたお方であること。神は、良い天のお父様であり、私たちに良いことをして下るお方であること。これらのことを、子供たちに教えなければなりません。
さらに、この神を恐れることを教えるのです。伝道12:13。神を恐れるとは、神に対して恐怖心を持つということではありません。神を認め、神の前に正しく生きるということです。
今日、価値観が多様化しているため、何が正しいことなのか、何が間違っていることなのかが分かりにくくなっています。絶対的な正しい基準がないため、それぞれ自分が正しいと思うことに従って生きるか、または周りの人たちに合わせて生きるようになります。
そのような中で、私たちが正しく生きるためには、神を恐れることが必要です。すなわち、神の前に、何が正しく何が間違っているのか、何が良い事で何が悪い事なのか、何を神が喜ばれ何を嫌われるのか、を基準とするのです。神を恐れることによって、どのように生きるべきか「知恵」が与えられます。箴言9:10

2.神を愛することを教える

父親は、子供たちに神を愛することも教えなければなりません。申命6:4-7マタイ22:37-38で、イエスも、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と言われました。神を愛するということの一つは、神を礼拝するということです。ギリシヤ語で「礼拝」は「プロスクネオ」で、「ひれ伏して口づけする」という意味です。このように、礼拝とは、神に対する愛の表現であるのです。
ダビデ王は、心から神を愛していたので、神を賛美し、礼拝する者でした。彼は、神を賛美するための楽器を作ったり、祭司たちによる賛美チームも組織しました。そして、神を礼拝するための神殿を建設しようとしましたが、許されませんでした。そこで、ダビデは、息子ソロモンが神殿を建てることが出来るようにと、神殿建設のためのあらゆる材料を豊富に用意しました。
ソロモン王が神殿を完成させ、礼拝していると、主の臨在が満ちました。Ⅱ歴代5:13-14
礼拝で大切なのは、音楽やプログラムではなく、主の臨在すなわち主ご自身です。神は、モーセに「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト25:8)と言われました。そして、モーセが幕屋を完成させると、そこに主の臨在が満ちました。出エジプト40:34-35。今日は、神殿も幕屋もありませんが、私たち一人一人が神殿です。Ⅰコリント3:16、6:19。神殿である私たちが神を賛美する時、そこに主が臨まれ、住まわれるのです。詩篇22:3
聖書の中で、良い王と呼ばれる人たちは、みな神を礼拝する者であり、民に神を礼拝するように指導した者たちでした。その時、国は、敵に奇跡的に勝利し、豊かに繁栄し、平和と平安が与えられました。私たちも子供たちに神を愛し、神を礼拝するように教え、導かなければなりません。

どんなに理想的な子育てができたとしても、子供たちに主を知り、主を恐れ、主を愛し、主を敬い、主に従うことを教えなかったら、それは子育てとして重大な欠陥です。父親は、家庭において、祭司であり、子供たちに、神を恐れることと、神を愛することを教えなければなりません。それが父親の重要な務めであり責任です。子供は、耳で習うのではなく、目で習います。父親は教えるだけではなく、自分自身がその模範とならなくてはなりません。父親自身も、神を恐れ、神を愛する者とならなくてはなりません。そのように子供たちを教え、導くことによって、「主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就する」のです。すなわち、主の祝福を豊かに受け継ぐ者とさせるのです。

 

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