18.5.20.
生ける水が川々となって流れ出る
ヨハネ7:37-39
「ペンテコステ」はギリシャ語で「50日目」という意味で、「五旬節」と呼ばれています。「五旬節」は、過越しの祭りから数えて50日目に行われました。レビ23:15~。また、7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれました。出エ34:22、申命16:10。キリスト教会にとっては、この日に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちによって、初めて福音が語られ、教会が誕生した記念すべき日です。使徒2:1-4。
1.エゼキエルの預言の成就
「祭りの終わりの大いなる日」(37)とありますが、この祭りは「仮庵の祭り」のことです。祭りの期間中、毎日、シロアムの池から神殿に黄金の器で水が運ばれ、朝と晩にいけにえが捧げられる時、供え物と一緒に祭壇の西に注がれました。これは、モーセが岩から水を出して人々の渇きを満たしたことを記念する儀式でした。人々は手に楽器を持って、イザヤ12:3の賛美と踊りをもって喜びながら水を運びました。「祭りの終わりの大いなる日」、仮庵の祭りの最終日である8日目に、イエスは、本当の喜びを与える「生ける水」を求めるように言われました。この「生ける水」とは、「聖霊」のことであるとヨハネは説明しています(39)。「心の奥底」とは、ギリシャ語では「腹」となっています。また、「川」という言葉は、原語のギリシャ語では複数形となっています。ですから、「聖霊がその腹から生ける水が川々となって流れ出るであろう」となります。この「生ける水の川」とは、単なる聖霊の内住ではなく、聖霊の満たしの体験です。イエスは、「聖書が言っているとおりに」と言われましたが、それはエゼキエル47:1-12で、預言者エゼキエルが見た新しいエルサレムの神殿の幻です。その幻は、「水が神殿の敷居の下から…流れ出し」て来て、最初は「足首まで」でしたが、やがて「水はひざに達し」、さらに「腰に達し」、ついに「泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった」のというものです。そして、「この川が入る所では、すべてのものが生きる」ようになりました。エゼキエルの見た神殿から生ける水が流れ出る幻は、未来において成就しますが、その前に、イエスを信じた者たちの中に実現するとイエスは言われたのです。
2.私たちは神殿とされている
私たちは、聖霊の宿る「神の神殿」(Ⅰコリント3:16)、「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)です。イエスを信じた時、私たちの内に聖霊が来られ、住まわれるようになったからです。人間は、神に似た者として造られ(創世1:26,27)、塵によって形作られました(創世2:7)。そして、「いのちの息」すなわち神の霊を吹き込まれて生きる者となりました。創世2:7。人間は、神の霊すなわち聖霊によって生きるように初めから造られているのです。ですから、私たちから聖霊が失われてしまうと、霊的に干からびた状態になります。かつては、救われていることを喜び、感謝していましたが、霊的な命がなくなり、救いの喜びが薄れ、不満ばかりが出て来ていないでしょうか。かつては、心から祈り、喜んで奉仕し、熱心に伝道していましたが、霊的な命がなくなり、忙しさに流され、自己中心な生き方となっていないでしょうか。かつては、罪に対して敏感で、小さな罪からも離れて、きよい歩みをしていましたが、霊的な命がなくなり、罪に対して鈍感になっていないでしょうか。かつては、生き生きとしたクリスチャン生活を送っていましたが、霊的な命がなくなり、形式的、表面的な信仰生活になっていないでしょうか。かつては、地の塩、世の光としてクリスチャンとしての証しを立てていましたが、霊的な命がなくなり、この世に流され、世と妥協的になっていないでしょうか。今、あなたは霊的にどのような状態にあるでしょうか。自分が「神の御霊が…宿っておられる」「神殿であることを忘れていませんか。」自分が「聖霊の宮」であり、聖霊が私たちの「うちに住まわれる」ことを忘れていませんか。
3.渇きをもって求める
イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。この言葉も、イザヤ55:1の「渇いている者はみな、水を求めて出て来い」の引用です。「生ける水の川」である聖霊の満たしは、自動的に与えられるのでありません。「生ける水の川」である聖霊の満たしは、求める者に与えられます。イエスは、聖霊を求めるようにと呼びかけておられます。イエスは、天に昇られる前にも、弟子たちに次のように命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4,5) Cf.ルカ24:49。この「父の約束」とは、聖霊が与えられるという約束です。ヨハネ14:16,17。ですから、「父の約束を待ちなさい」とは、「聖霊のバプテスマ」すなわち「聖霊の満たし」を待ち望むようにということです。イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエス様の言葉通りエルサレムに帰り、聖霊を求め「みな心を合わせ、祈りに専念し」(使徒1:14)ました。すると、「五旬節の日」に「天から」の「激しい風が吹いて来るような響き」と共に、聖霊が彼らに臨み、彼らはみな「聖霊に満たされ」たのです。使徒2:1-4。神は、聖霊の満たしを求める者に聖霊の満たしを与えて下さいます。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:9)。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
「生ける水」である聖霊を飢え渇きをもって求めましょう。求める者には、「その腹から生ける水が川々となって流れ出る」のです。エゼキエルの見た幻のように、私たちの内から「生ける水」である聖霊が流れ出て、私たちを生き生きとしたクリスチャンとならせ、周りの人々にも命をもたらすのです。イエスは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます。
Filed under: 伊藤正登牧師