20.4.19.

「ふたりの弟子が、エルサレムから11km余り離れたエマオという村」(13)へと歩いていました。このエマオへの道中、彼らに何が起こったのでしょう。

1.霊的な目が閉ざされていた二人の弟子

二人の弟子は、エルサレムで起こった「いっさいの出来事について話し合って」(14)いました。彼らが「話し合ったり、論じ合ったり」していると、「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を」歩かれました(15)。「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとは」(16)分かりませんでした。イエスは「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか」(17)と尋ねました。「クレオパ」という弟子が「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか」(18)と言いました。イエスの十字架の死や復活についての話は、既にエルサレムに広まっていたのでしょう。彼らは、皆が知っていることを、その人が知らないということに驚いてしまいました。すると、さらにイエスは彼らに言いました。「どんな事ですか。」(19)

そこで、彼らは、イエス本人にイエスについて説明し始めました。彼らは、イエスを「行いにもことばにも力のある預言者」(19)であると考えていました。そして、イスラエルをローマの支配から解放してくれるものと期待していました。しかし、イエスが十字架にかけられ死んでしまったことを悲しみ、失望していたのです。彼らは、自分たちが話している相手がイエスだとは全く気づきませんでした。それは、「ふたりの目はさえぎられて」(16)いたからです。

彼らの霊的な目は、先入観や固定概念に「さえぎられて」いました。彼らは、イエスを「行いにもことばにも力のある預言者」(19)としか考えていませんでした。つまり、イエスを単なる偉大な人間としか考えていなかったのです。彼らのイエスについての理解は、自分たちの知識や経験の範囲の中だけでした。そのため、イエスの十字架の死と復活についても理解出来なかったのです。人間の知識や経験で理解しようとすると、益々理解出来なくなってしまうのです。なぜなら、イエスは、人間の知識や経験をはるかに超えたお方だからです。

2.御言葉の解き明かしによって心が燃やされる

イエスは二人の弟子に「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」(26)と言って、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ」(27)ました。イエスは「聖書全体」すなわち旧約聖書からキリストの受難や復活について説明しました。旧約聖書に書かれていることは、キリストについてなのです(ヨハ5:39ルカ24:44)。

二人の弟子は、十字架で死なれたイエスが、旧約聖書で預言されたキリストであり、イエスが預言の通りに復活されたのだということが分かって来ました。御言葉が解き明かされていくと、次第に彼らの信仰が燃やされて来ました(32)。私たちは、御言葉によって信仰を持つことが出来るようになります(ロマ10:17)。

単に「聞く」(hear:漠然と聞く)のではなく、「聴く(listen:意図的に聞く)ことが必要です。イエスは、御言葉の聞き方について、「種まきのたとえ」によって教えました(マタ13:3-9)。「良い地」に蒔かれた種が何倍もの実を結ぶように、良い心の態度と姿勢で御言葉を聞かなければなりません。「道ばた」のような堅い心ではなく、素直な柔らかい心で御言葉を聞くことです。「土の薄い岩地」のように自分の思いが強く、耳障りの良い言葉だけを聞くのではなく、へりくだり、どんな御言葉でも聞くことです。「いばら」の地のように、神とこの世の両方を求める二心ではなく、何よりも神だけを求める心で御言葉を聞くことです。イエスは、「耳のある者は聞きなさい」(マタ13:9)と言われました。

日々、聖書を読み、御言葉を通して語りかける主の御声に耳を傾けなければなりません。また、礼拝のメッセージや聖書の学び会で、御言葉の解き明かしを聞くことも必要です。

3.主との交わりによって霊的な目が開かれる

二人の弟子が「いっしょにお泊りください」と「無理に願ったので」、「イエスは彼らといっしょに泊まるために」に家に入りました(29)。イエスが「ともに食卓に着かれ」、「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡され」(30)ると、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(31)のです。パンを裂いて手渡すということは、最後の晩餐の場面、聖餐式を思い起こさせます。聖餐式は英語で「Holy Communion」と言い、「聖なる交わり」という意味です。ここに「いっしょに」と「ともに」という言葉が何度も出て来ます。私たちが主と共にいること、主との交わりの中にいることが大切なのです。イエスとの交わりの中で、彼らの霊的な目が開かれたのです。

今日、主との交わりは聖霊によって持つことが出来ます。Cf.Ⅱコリ13:13。聖霊は、「もうひとりの助け主」なる「真理の御霊」です(ヨハ14:16-17)。聖霊は、「すべてのことを教え」(ヨハ14:26)、「すべての真理に導き入れ」(ヨハ16:13)ます。イエスについて「あかし」(ヨハ15:26)し、イエスを指し示すのです。このように、聖霊との交わりの中で、霊的な目が開かれていきます。霊的な事柄については、聖霊によってしか理解できないのです(Ⅰコリ2:10-11,14)。そして、パウロはエペソのクリスチャンたちのために、「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって…」と祈りました(エペ1:17-19)。

ラオデキヤの教会は物質的には恵まれていましたが、霊的には「盲目」(黙3:17)でした。そんなラオデキヤの教会にイエスは「わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしともに食事をする」(20)と言われました。

 

二人の弟子の「暗い顔つき」は、喜びに輝いていたことでしょう。私たちも御言葉の解き明かしによって信仰を燃やされ、主との交わりによって霊的な目を開いていただきましょう。

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