20.11.8.

イエスは、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し初め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し」(15)、「宮を通り抜けて器具を運ぶことを…お許しに」(16)なりませんでした。なぜ、イエスは、このような過激な行動に出たのでしょう。主は、私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.教会は祈りの家である

過越の祭には、世界中から多くのユダヤ人がエルサレムに集まって来たため、神殿の庭では、遠くからの巡礼者たちのため、いけにえの動物が売られていました。また、神殿には献金箱があり、巡礼者たちは献金をささげなければなりませんでした。しかし、当時の貨幣は、ローマ帝国の貨幣であり、ローマ皇帝の顔のレリーフが施されていました。それは、ユダヤ人にとって偶像であり、汚れていて、神聖な神殿では使えませんでした。そのため、ローマの貨幣をユダヤの貨幣と交換する「両替人」がいました。

そのような商売がされていたのは、「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の外庭でした。そこは、神を信じる異邦人たちが礼拝する場所でした。ユダヤ人たちは、神殿の内庭まで入ることが出来ましたが、異邦人たちは、神殿の外庭にしか入ることが許されませんでした。そこは、異邦人たちが祈ることの出来る唯一の場所でした。その場所は、静かに祈りをささげることの出来る聖なる場所でなければなりませんでした。しかし、そこは、市場のように賑やかでうるさい場所となってしまい、せっかく遠くから来た異邦人たちの祈りを妨げることになってしまったのです。

それで、イエスは怒り、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し、宮を通り抜けて器具を運ぶこと」を許さなかったのです。そして、イエスは、旧約聖書のイザ56:7を引用して、言われました。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」「わたしの家」とはエルサレムの神殿であり、神殿は「祈りの家」であるべきなのです。

今日、クリスチャンの集まりである教会が「神の神殿」(Ⅰコリ3:16-17)です。エペ2:21-22には、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」とあります。エルサレムの神殿が「祈りの家」と呼ばれたように、教会も神殿であり、「祈りの家」です。今日、教会が単なる「交わりの家」、「音楽の家」、「聖書研究の家」、「イベントの家」となってしまってはいないでしょうか。祈ることよりも、何か活動することが優先されてしまってはいないでしょうか。教会は「祈りの家」ですから、教会では祈りがささげられていなければなりません。

2.祈りの家で楽しむ

イエスが言われた「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか」という御言葉は、イザ56:7からの引用です。この御言葉の中で、主は「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」と言っています。「彼ら」とは、「主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人」(56:6)のことであり、私たち異邦人クリスチャンのことです。異邦人は、神殿の内庭に入ることは許されていませんでした。神殿には、ユダヤ人だけが入れる庭とユダヤ教の信仰を持った異邦人が入れる外庭があり、その間には神殿の四方を囲む「ソレグ」(隔ての壁)と呼ばれる低い大理石の壁があり、そこには「これより中に入る異邦人は、死刑に処す」と警告の札がつけられていました。

しかし、その壁は、キリストの十字架の死によって、取り除かれました(エペ2:14-16)。それによって、異邦人もユダヤ人と共に神に近づけるようになりました(エペ2:18)。異邦人もユダヤ人とともに神の民、神の家族、神の御住まいとなったのです(エペ2:19-22)。このイザ56:6-7の完全な成就は、将来の神の国においてです。

「祈りの家」である教会で「楽しませ」て下さるということは、どういうことでしょうか。一体、何を楽しませて下さるのでしょうか。それは、音楽でも、食事でも、楽しい交わりでもなく、主の臨在です。祈りとは、単なる願い事ではなく、主との会話でありコミュニケーションです。私たちは、祈りによって、主に近づき、主の臨在に入って行きます。そして、主の臨在の中で、主に語りかけ、主からの語りかけを聞くのです。祈ることによって、主との交わりを持ち、主との関係を深めていくのです。

どのような関係にも、コミュニケーションは欠かせません。コミュニケーションが失われるに従って、その関係も冷えたものとなってしまいます。しかし、コミュニケーションが豊かになる時、その関係も豊かなものとなるのです。祈りは、単なる宗教儀式でも、宗教行為でもなく、主との交わりなのです。私たちは、祈りによって、主と親しく交わり、慰められ、励まされ、力強められます。祈れば祈るほど、信仰が強められ、燃やされるのです。ですから、祈りは、私たちにとって、喜びであり、楽しみなのです(詩16:8-9,11)。

確かに、祈りは、教会でなくても、いつでも、どこでも出来ます。なせなら、私たち自身もまた「聖霊の宮」(Ⅰコリ6:19)であるからです。しかし、敢えて「祈りの家」である教会に行き、主の御前に進み行き、主の臨在の中で、主と交わる時を持つことが大切なのです。

 

主は、私たちを「祈りの家」に招き、呼んでおられます。「祈りの家」である教会で、主を慕い求めましょう。ダビデは、神殿で主の臨在に満たされ、主と交わることを求めていました(詩26:8、27:4)。私たちも、ダビデのように、「主の家」で、主との親しい交わりを喜び、楽しみましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師