17.01.01.
祈りの家としての教会
マルコ11:15-17
大勢のユダヤ人たちが過ぎ越しの祭りのためにエルサレムの神殿にやって来ました。
イエス様と弟子たちも、エルサレムの神殿に行きました。
そこで、イエス様は、本来の神殿の在り方について大切なことを語られました。
1.教会は祈りの家である
神殿の庭には、「売り買いしている人々」や「両替人」たちが大勢いました。
神殿では、動物のいけにえがささげられましたが、
遠く外国から巡礼に来る人たちは、犠牲の動物を連れて来ることの出来ないため、
彼らのために神殿の庭でいけにとしてささげる動物を売る者たちがいました。
また、ローマの貨幣は皇帝の肖像が彫られていたため汚れたものとされ、
神殿でのささげものとして用いることが出来ませんでした。
そのため、汚れた硬貨を神殿にささげる聖なる硬貨と交換する「両替人」がいました。
そこでの商売や手数料によって、商人たちは莫大な利益を得ていました。
そして、それは一部祭司たちにも流されていたようです。
このように、祈りの場であるべき神殿が、商売の場、「強盗の巣」となっていたのです。
しかも、この商売がされていたのは、「異邦人の庭」と呼ばれる場所で、
神様を信じて礼拝するようになった異邦人たちが礼拝する場所でした。
しかし、商売する人たちのせいで、彼らの礼拝は妨げられていたのです。
イエス様は、この状態に非常に憤りを感じ、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、
両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し」てしまいました。
そして、イエス様は「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてある
ではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」と言いました。
これは、旧約聖書のイザヤ56:7からの引用です。
「わたしの家」とは、エルサレムの神殿を指しています。
神殿は、神様を信じる者たちが神様に祈りをささげ、礼拝する場所です。
今日、神殿とは、クリスチャンのことであり(Ⅰコリント3:16,17、6:19、Ⅱコリント6:16)、
神様によって召し集められた私たち教会のことです。エペソ2:21,22。
教会は、祈りをささげ、礼拝する場所、「祈りの家」なのです。
今日、私たちの教会は「祈りの家」となっているでしょうか。
「祈りの家」であるべき教会から、祈りが消えてしまっていることはないでしょうか。
祈ることよりも、自分たちを満足させることが優先されてしまってはいないでしょうか。
神様のために活動することに忙しくなり過ぎて、祈ることを忘れてはいないでしょうか。
教会には、様々なプログラムやイベント(行事)や活動がありますが、
まず第一に神様への祈りがささげられ、神様があがめられなければなりません。
パン屋の本業がパンを売ることであるように、教会の本業は「祈り」なのです。
神様は、教会が「祈りの家」であることを望んでおられます。
2.主を慕い求めて祈る
教会でまず第一になされなければならないことは、祈りと礼拝です。
しかし、「祈り」と言っても、単に自分の願い事をするだけのものではあってはなりません。
神様に自分の必要が満たされるように祈り求めることも出来ますが、
それだけでは、神様を知らないこの世の人たちが自分勝手な願い事をすることと同じです。
私たちは、神様に自分の願い事を祈り求めるだけではなく、
常に、心から神様を愛し、神様を慕い求め、神様に近づかなくてはなりません。
神様は霊ですから、私たちの肉眼では見ることは出来ません。
ですから、信仰のない人は、目に見えない神様を求めるということは理解出来ません。
ですから、この世の信仰のない人たちは、見に見えない神様ではなく、
目に見えるもの(お金、物質、人)を求めるのです。
それらの目に見えるものを手に入れることによって幸せになれると思っています。
しかし、それらのものは、いつか失われたり、消えたりするものであったり、
やがて変わってしまうものであったりします。
また、それらのものを手に入れたとしても、幸せな気持ちになれるのは一時的であり、
時間が経つと、その感動も薄れ、また別の新しいものがほしくなるのです。
こうして、どんなにこの世の目に見えるものを求めても、決して満たされないのです。
私たちは、目に見えるものではなく、目に見えない神様を求めるのです。Ⅱコリント4:18。
私たちが第一に神様を慕い求め、神様に近づき、神様とともにある時、
私たちに必要なものは全て与えられるのです。マタイ6:33。
私たちが神様を求め、神様に近づく時、必要なものも神様が引き寄せて下さるのです。
イエス様も、葡萄の木の例えで、イエス様にとどまるようにと言われました。ヨハネ15:4,5。
イエス様にとどまる時、実を結び、イエス様からはなれる時、実を結べないのです。
また、祈る時に、自分の願い事ばかりに集中してしまう人もいます。
勿論、色々な必要を神様に熱心に祈り求めることは、悪い事ではありません。
しかし、問題は、祈りの焦点が、神様ではなく、願い事に向かってしまうことです。
神様から利益を求めることよりも、神様ご自身を求めなくてはなりません。
神様の御手だけを求めるのではなく、神様の御顔を求めるのです。
神様は、私たちの必要について、私たちが祈る前からご存知です。マタイ6:8。
だから、自分の願い事に集中して祈るのではなく、神様ご自身を喜び、慕い求めるのです。
その時、私たちの願いも自ずと答えられます。詩篇37:4。
私たちは、「祈りの家」である教会で、ただ神様ご自身を喜んで慕い求めるのです。
今日、教会において祈りがおろそかにされている傾向があるのではないでしょうか。
祈りよりも会議、企画や戦略、経済力の方が大切になってはいないでしょうか。
祈りなしの賛美礼拝に主の臨在は感じられません。
祈りなしの伝道には力がなく、人々を救いに導くことは出来ません。
しかし、祈る教会には、神様の臨在と力と命があふれています。
教会で行われる全てのことは、神様の臨在から流れて来るべきものなのです。
神様は、私たちの教会が「祈りの家」であることを望んでおられます。
神様を慕い求めて祈る「祈りの家」となっていきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師