19.9.1.

聖霊は、どのようなところに臨まれ、働かれるのでしょう。

1.聖霊は思いのままに働く

イエスはニコデモに、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」(5)と言われました。イエスは、人は聖霊の働きによって、新しく生まれ変わると語られたのです。そして、イエスは、「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(8)と言われ、人が聖霊によって、新しく生まれ変わる行程は、誰も分からないのだと語られました。

ここでイエスは、人を新しく生まれさせて下さる聖霊を「思いのままに」吹く「風」に例えておられます。旧約のヘブル語では、「霊」は「ルーアッハ」といい、「風」、「息」とも訳されます。「ルーアッハ」に対応する新約のギリシヤ語は「プニューマ」で、同じく「霊」「風」、「息」という意味があります。イエスが8節で「風は思いのままに吹き」と言われた「風」は「プニューマ」であり、「御霊によって生まれる者」と言われた「御霊」も「プニューマ」です。ですから、「風は思いのままに吹き」は、「御霊」は「思いのままに吹き」とも訳せます。イエスは、「プニューマ」を「風」と「御霊」に使い分けて、聖霊が「風」のように、自由に働かれることを語られたのです。

「思いのままに」というのは「望むままに」という意味です。パウロも「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(Ⅰコリ12:11)と言っています。聖霊は人格をもった神であり、「思いのままに」、「みこころのままに」働かれるのです。聖霊は、誰からも強制されることもありませんし、私たちが自分の力で聖霊の風を吹かせることも出来ません。

2.聖霊が働かれるところ

① 求められているところ

イエスは、「わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます(ヨハ7:37-38)。また、「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11:9)と語られた後、「聖霊」を「求め」るなら、「天の父」が与えて下さると言われました(ルカ11:13)。また、イエスは、弟子たちに、聖霊を待ち望むようにと言われました(使1:4)。それで、弟子たちはエルサレムで「みな心を合わせ、祈りに専念して」(使1:14)いました。弟子たちが「五旬節の日になって、みながひとつ所に集まって」いると、「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起り」、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のです。聖霊は、私たちが祈り求めるところに来て下さいます。心の窓を大きく開けて、聖霊の風を取り入れましょう。

② 賛美がなされているところ

私たちが主を賛美する中に、聖霊なる主は臨まれます(詩22:3)。ソロモンが神殿を奉献する時、賛美する者たちが立てられました。楽器を奏でる者たちも、賛美を歌う者たちも「まるでひとりであるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえ」ました。すると「主の宮は雲で満ちた」とあります(Ⅱ歴5:13-14)。その「雲」は、主の臨在、すなわち聖霊の臨在を表すものでした。そして、「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることが出来なかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである」とあるように、それは豊かな臨在でした。賛美をもって、主の臨在に近づき、また同時に、主の臨在をお迎えするのです。

3.いのちを与える聖霊

エゼ37:1-14には、エゼキエルが見た「干からびた骨」の幻が書かれています。その「干からびた骨」は、滅ぼされてしまったイスラエルを表していました。イスラエル人たちは、形式的には信仰を持って生活していましたが、心は神から離れ、罪の生活を送っていたため、外国の勢力に滅ぼされてしまったのです。クリスチャンでも、神との交わりが薄れ、聖霊による霊的いのちの供給が途絶えると、イスラエルの人々のように「干からびた骨」の状態になってしまうのです。すなわち、霊的に無感覚となり、霊的に無力になってしまうのです。

エゼキエルが「干からびた骨」に主の言葉を語ると、「骨と骨とが互いにつなが」り、さらに「その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」のです。霊的にいのちを失ってしまった者が再びそのいのちを吹きかえすためには、「主のことば」を聞かなければなりません。Cf.マタ4:4ローマ10:17

しかし、エゼキエルが見るとまだ「その中に息は」ありませんでした。そこで、エゼキエルが「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ」と預言すると、「息が彼らの中に」入り、「彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった」のです。この「息」は、ヘブル語で「ルーアッハ」で、「風」、「霊」を意味します。すなわち、この「息」とは、神の「霊」、聖霊です。ですから、14節で.神は「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」と言われました。霊的ないのちを失い「干からびた骨」となった人々を生き返らせるのは聖霊です(エゼ37:14)。聖霊は、私たちに霊的ないのちを与えて下さいます(ヨブ33:4Ⅱコリ3:6)。

 

イエスは、よみがえられた後、弟子たちに「息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」命じられました(ヨハ20:22)。今も聖霊の風は「思いのままに」、「みこころのままに」吹いています。心の窓を開けて、聖霊の風を求め、賛美をもって、聖霊の風を迎えましょう。聖霊の風を受けて、いのちにあふれたクリスチャン、教会となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師聖霊