15.4.12.

舟の右側に網を降ろす

ヨハネ21:1-11

イエス様が復活された後、
ペテロは他の弟子たちと共にティベリヤ湖(ガリラヤ湖)に行き漁をしていました。
彼らは一晩中漁をしましたが、何も獲れませんでした。
そして、弟子たちは心身ともに疲れ果て夜明けを迎えました。
その時、イエス様が岸辺に立っておられ、弟子たちに言われました。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6)
弟子たちは言われるままに「舟の右側」に網を下ろしてみました。
「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」(6)ほどでした。
その網は「百五十三匹の大きな魚でいっぱい」(11)でした。

1.みことばに従う時に奇跡が起こる

弟子たちは一晩中漁をして働いたのに、その労は報われず、何も獲れませんでした。
そのため、弟子たちは心も体も疲れ果てていたに違いありません。
どんなに人間的な常識に従って努力しても、
イエス様が共におられるのでなければ、結果は期待はずれなものとなってしまいます。
そして、心は失望し、体は疲れ果て、満たされない気持ちになってしまうのです。
弟子たちが心も体も疲れ果ててしまっていた時、
イエス様は彼らに「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われました。
人間的に考えるなら、あまり意味のないことで、無駄なことのように思えたでしょう。
しかし、弟子たちがイエス様の言葉に従って網を下ろすと、大漁となったのです。
これと似た出来事がルカ5:1-11にも記されています。
そこでも、弟子たちは一晩中漁をしましたが、何の収獲もありませんでした。
イエス様はペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。
常識的に考えて、昼間に沖に出て漁をしても何も獲れるはずがありませんでした。
しかし、ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。
でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えました。
「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」のです。
人間的に考えて無駄な努力、不可能なことと思われることであっても、
イエス様のみことばに従う時に奇跡が起こるのです。

2.どのようなみことばでも従う

みことばを知っていて、何をするべきかを頭の中では分っていても、
色々と自分なりの理屈や言い訳を言って、みことばに従っていないことはないでしょうか。

① たとえ理解出来ないみことばでも従う
イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われました。
しかし、右側に網を下ろしても、左側に網を下ろしても大きな違いはありませんでした。
人間的に考えるなら、あまり意味のないことで、無駄なことのように思えたでしょう。
しかし、弟子たちはイエス様のお言葉に従いました。
また、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた時も、
それは当時の常識からは外れていましたが、ペテロはイエス様のことばを受け入れて、
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、主のお言葉に従ったのです。
私たちは、自分の納得出来る範囲でのみみことばに従うということはないでしょうか。
主のみことばは、この世の常識や私たちの考えとは異なることがあります。
たとえ主が語られるみことばが自分の頭では理解出来ないようなことであったとしても、
主のみことばを受け入れ、従うことが必要です。イザヤ55:8,9

② たとえ厳しいみことばでも従う
弟子たちは一晩中漁をしていて、肉体的には疲れていたことでしょう。
しかし、イエス様は何のねぎらいの言葉もかけることはありませんでした。
むしろ、弟子たちには「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われ、
ペテロに対しては「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ、
もう一度漁をするようにと、厳しい言葉を言われたのです。
主のみことばは、慰めと励ましに満ちています。
しかし、みことばは時として厳しいものもあります。
たとえ主が語られるみことばが自分にとって厳しいものであったとしても、
主のみことばに耳を傾け、それを受け入れ、それに従うことが必要です。
まず従ってみてからでなければ、その意味が分らないみことばもあるのです。
アブラハムは神様に最愛の一人息子イサクをいけにえとして捧げるように言われました。
それはアブラハムにとって非常に厳しい言葉でした。
なぜそのようなことが命じられるのか分かりませんでしたが、彼は神様に従いました。
しかし、神様はいけにえとなる羊を予め用意しておられたのです。

イエス様の言葉は人間的に考える時に、非常識で不可能で無駄に思えました。
しかし、弟子たちは決して否定的にならず、イエス様の言葉に従いました。
どんなに非常識に見えても、納得出来ないことでも、無意味なように思えても、
弟子たちは主の言葉に従ったのです。
あなたは素直にイエス様の言葉に従うことは出来ますか。
みことばを知っていながら、色々な言い訳を言って、実行していないことはありませんか。
主がみことばを通してもう既に語っておられるのに、
あなたがまだ取り掛かっていないことは何でしょうか。
信仰をもって従ってみなければ分らないこと、見えないこともあります。
私たちには、自分の考えでは理屈に合わないと思えることでも、
「主のみことばがそう言っているから従う」という信仰が必要です。
自分の知識や経験だけで判断しないで、信仰をもって主のみことばに従うのです。
信仰は実際にみことばに従うという行動によって現されるのです。
主はそのような信仰を通して働き、栄光を現して下さいます。
みことばに従う時に祝福があることが約束されています。ヨハネ13:17。ヤコブ1:25
主のみことばに従いましょう。