18.09.23
今日は収穫についての話です。畑には良い麦と毒麦が共に育ち、収穫の日が近づくと、毒麦は引き抜かれて燃やすために束にされ、良い麦は収穫されて神様の蔵に納められるという話です。この良い麦と毒麦の話から、私たちクリスチャンが良い麦として、どのように歩むべきかを学びましょう。
1.良い麦の人は他の人を励まし、みことばに従う
イエス様はこのたとえの解説をしています。良い種を蒔く者はイエス様、畑はこの世界、良い種は御国の子供たちです(マタイ13:37-38)。ですから、良い種はイエス様を信じて神様の子供となったクリスチャンたちです。そして、収穫はこの世の終わり、刈り手は御使いたちのことです。
毒麦は悪い者の子供で、毒麦を蒔いたのは悪魔です(マタイ13:39)。この毒麦の悪者たちは、良い麦の中に紛れ込んでいて、しかもしばらくの間、良い麦との見分けがつきにくいのです。イエス様の12弟子の中にイスカリオテ・ユダがいたように、最後にならないと良い麦と毒麦はわかりません(Ⅱテモテ3:13)。
イエス様は、毒麦について「つまずきを与える者や不法を行う者たち」と言っています(マタイ13:41)。「つまずき」とは、人に罪を犯させ、信仰を失わせることです。私たちは互いにつまずきを与えてはいけません(マタイ18:6-10)。人は不完全なので、つまずきが起こることはあります。しかし、あえて悪意をもってつまずかせるなら、主に裁かれます。
また不法を行うような者であってはいけません。「不法」とは、神様のみことばに従わないことです。パウロもアレキサンデル(除名された元信者)にずいぶん苦しめられました(Ⅱテモテ4:14-15)。羊の群れの中に他の羊を苦しめる悪い羊がいたら、やがて主に裁かれてしまいます(エゼキエル34:17-19)。
私たちは、良い種、良い麦です。他の人の信仰を励まし、模範になり、みことばに従って正しく歩みましょう。
2.良い木は良い実を結ぶ
イエス様は「良い木は良い実を結ぶ」と言われました(マタイ7:16-18)。その木が良いか悪いかは実によって分かるのです。実とは、その人の行い、態度、生き方と言えます。
どんなに口先で立派なこと、信仰的、霊的なことを言っていても、行いが伴わないなら死んだ信仰であり意味がないのです(ヤコブ2:17)。
良い実を結んでいる人は、人が見ていないときも、あるいは報いがなくても、誠実に歩みます。私たちは年を追うごとに愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22-23)が増し加わるようになりましょう。それは人の力ではできませんが、イエス様を信じ、聖霊に導かれて歩むなら、おのずと御霊の実が実るのです。
外側は立派でも中身が悪ではいけません(マタイ23:27-28、Ⅱテモテ3:1-5)。人が見ているところで立派な信仰者なのは結構ですが、人が見ていないところでも誠実に生きている者が良い麦なのです。
良い実を結ぶとは、光の実を結ぶということでもあります。私たちは光の子どもらしく、良い心で、正しい行いをし、正直な者として誠実に歩みましょう(エペソ5:9)。
やがて収穫の時、つまり世の終わりの再臨の時が来ます。その時、良い麦と悪い麦は分けられます。良い麦は最後まで信仰を捨てず、イエス様と共に歩み続け、引き抜かれて焼かれることはありません。時が来たら、主によって天に引き上げられ、御手の守りの中で祝福に満ちた時を過ごすことになるのです。しかし、毒麦は良い麦の間から取り除かれて不信仰の人々と共に束縛され焼かれます。ですから、私たちは良い麦として兄弟姉妹をつまずかせたりさばいたり苦しめたりせず、かえって信仰を励まし、みことばに従って主の栄光のために歩むものとなりましょう。
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