14.10.26

良きサマリヤ人

ルカ10:25-37

愛ということばは多くの人に好かれています。しかし、愛とは何でしょう。どこから来るのでしょう。私たちはどのように愛を実践し歩むべきでしょうか。

1.隣人とは誰か

ある律法の専門家が救われる方法についてイエス様に尋ねたところ、神を愛し(申命記6:5)、隣人を愛すること(レビ記19:18)のみことばを実行するようにと言われました。

この律法学者は、神様のみことばを学び、守っていたので、自分は神様を愛していると思っていました。しかし人を愛しているかというと、彼はユダヤ人を愛していましたが、サマリヤ人は愛していませんでした。なぜなら、ユダヤ人にとってサマリヤ人は外国人だからです(ルカ17:18)。そこでイエス様に、私の隣人とはだれのことですか、と尋ねました。そのときイエス様は「良きサマリヤ人」のたとえを話されました。

サマリヤ人はユダヤ人から外国人だと思われて、嫌われていました。ユダヤ人が強盗に襲われて大怪我している姿を見ても、サマリヤ人なら助けたくないと思っても不思議ではありませんでした。それに、面倒に関わりたくなかったでしょうし、この道はユダヤ人もときどき通りますから、自分が助けなくても同国人が助けるでしょう。ですから、このサマリヤ人が助けなくても不思議ではありませんでした。しかし、彼は目の前の強盗被害者を見過ごしにはできず、怪我が癒えるようにとできる限りのことをしたのです。このサマリヤ人が強盗被害者の隣人になったということなのです。

もし自分のそばに助けを必要としている人がいたら、それは神様が置いた隣人ということです。また、同じ家族でも、同じ職場の同僚でも、同じクラスメートでも、たまたまそこに居合わせたという場合でも、助けを必要としている人は、神様が置いてくださったあなたの隣人なのです。私たちはそのような人々に愛を現すようにしましょう。

2.愛とは何か

このサマリヤ人は、どうして犠牲を払って強盗被害者を助けたのでしょう。
隣人を愛すると言っていろいろな助けをしても、逆に迷惑に感じさせてしまうことがあります。私たちはどのようにして愛を現したらよいのでしょうか。

①相手の気持ちに立つ
隣人を愛するときは、「あなた自身のように」(ルカ10:27)ということが大事なのです。相手の気持ちになって考えることです。律法とは自分にしてもらいたいことをしてあげることであり(マタイ7:12)、相手の立場に自分が立たなければ、何をすべきかわからないのです。サマリヤ人は彼を見てかわいそうに思いました。このサマリヤ人の愛の行動の出発点は相手の立場に立ち、かわいそうに思ったという同情心でした(v.33)。私たちも自分の経験した苦しみを思い出し、隣人の苦しみを理解してあげることができるのです。もし相手の気持ちにならないで助けたとしても、それは愛ではないので、何の役にも立たないのです(Ⅰコリント13:3)。

②行動する
このサマリヤ人は強盗被害者を見て、かわいそうに思っただけでなく、彼を助けました。言葉や口先ではなく、行いと真実で愛する者になりましょう(Ⅰヨハネ3:18)。
また、この祭司やレビ人は神殿に仕える人たちで、神様のみことばをよく知っていました。しかし、みことばを知っているだけでは意味がありません(Ⅰコリント13:2)。行動する者になりましょう。

③犠牲を払う
愛するためには、犠牲が伴うものです。このサマリヤ人が自分の計画を変更したり、労力を使ったり、出費をしたりなど犠牲を払いました。私たちも犠牲を惜しまず愛を実践する者になりましょう。

このサマリヤ人がもっているような愛は、神様から与えられるものです。なぜなら神様の愛は私たちの苦しみを理解して下さり、実際に私たちを救うために御子を送り、十字架という大きな犠牲を払ってくださったからです。神様は愛です(Ⅰヨハネ4:16)。その愛がⅠコリント13:4-8の愛です。私たちも隣人の苦しみが分かるような愛をもてるよう、神様に求めてゆきましょう。