16.2.14.

赦され赦す祈り

マタイ 6:12

「主の祈り」の後半部分は、私たちの必要を求める祈りとなっています。
「日毎の糧が与えられ、罪が赦され、悪から救われるように」という祈りです。 特に 2 番目の「罪の赦しの祈り」は、神様との関係の中で祈られる特別な祈りです。 すなわち、「神様に対する私たちの罪の赦し」が
「私たちに対して罪のある者たちを赦すこと」と密接な関係があるのです。

1.私たちの負いめをお赦しください

負いめ」とは「当然支払うべき負債」、「返すべき責任のある負債」、 すなわち「借金」のことですが、私たちの「罪」のことを言っています。Cf.ルカ 11:4。神様に対する私たち人間の罪が神様に対する「負いめ」であり負債、借金なのです。 私たちが生きて行く中で、私たちは意図的または無意識に罪を犯してしまい、 その罪が神様の前に借金のように積み上げられているのです。 私たちは自分の力でその罪を取り除くことは出来ません。 どんなに良い事をして、罪を帳消しにしようとしても、罪は決してなくなりませんし、 良い事をしようとしてもなかなか実行出来ず、すぐにまた新たな罪を犯してしまうのです。 私たちの罪が赦されるための方法は、ただ神様に赦していただく以外ありません。 ですから、犯してしまった罪について、「お赦しください」と祈る必要があるのです。 聖書は次のように、罪の赦しを約束しています。
Ⅰヨハネ 1:9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、 その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 Cf.詩篇 51:17。 私たちが罪の赦しを求めて祈るのは、私たちが天国に行くためではありません。 神様との親しい交わりを保つためです。 私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じたことによって、 私たちの罪は赦され、「罪に定められることは決してありません」。ローマ 8:1。 しかし、罪が赦されていても、罪を全く犯さない完璧な人間になるわけではなく、 罪を犯してしまう弱さはまだ残っています。 そして、たとえ罪が赦されていて天国に行くことが出来たとしても、 日毎の罪の赦しがないままであるなら、神様との親しい交わりは損なわれてしまいます。 罪のために良心の呵責があり、神様の前に近付き難かったり、 祈っても聞かれているという確信が持てなかったりしてしまいます。 しかし、罪の赦しを受けているなら、神様に大胆に近付き、祈ることが出来るのです。 Ⅰヨハネ 3:21,22愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、 大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。 罪の赦しをいただき、神様との親しい交わりである光の中に歩みましょう。 神様は私たちを既に赦しておられ、 私たちが神様の御前に正直に罪の赦しを求めて祈ることを待っておられるのです。

2.私たちに負いめのある人たちを赦しました

これは「私たちが他の人を赦したから、私たちも赦して下さい」という条件の祈りでなく、
「私たちが赦されたのだから、私たちも他の人を赦します」ということです。Cf.ルカ 11:4。 神様が十字架で死なれたイエス様によって罪の赦しを与えて下さったことを覚え、 私たちもそのように他の人たちを赦しました、これからも赦し続けますと祈るのです。 ある時、ペテロはイエス様に「何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と尋ねると、 イエス様は「七度を七十倍するまで」(マタイ 18:21,22)と答えられました。 そして、その直後、「無慈悲なしもべ」の例え話をされました。マタイ 18:23-35。 その中での王の言葉が、神様が私たちに望んでおられることです。
マタイ 18:33私がおまえをあわれんでやったように、 おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。 私たちは、神様の赦しという大きな恵みを先に与えられた者として、 今度は他の人の罪を赦すようにならなければならないのです。エペソ 4:32。コロサイ 3:13。 このように、他の人を赦すということは、神様の無条件の赦しが先行しています。 ですから、もし、他の人を赦すことが出来ないのならば、 神様の赦しを本当に理解しているのか、受け取っているのか考えなければなりません。 神様に赦されていながら、他の人を赦さないで、恨み続ける選択をするなら、 自分自身が傷つき続け、神様の祝福が注がれることを妨げてしまうのです。 赦しは、相手のためだけではなく、自分自身のためにも必要なのです。 いつまでも恨みと怒りを心の中に留めておき、被害者意識を持ち続けるなら、 いつまでも心は傷つき、落ち込み、暗くなり、惨めな気持ちを抱き続けるのです。 やがて、心も体も蝕まれ、人生はボロボロなものとなります。Cf.エペソ 4:26,27。 相手のしたことは赦せないと思うでしょう。怒るのも当然だと思うでしょう。 私たちは、相手が悪い、先に相手がこうしたからだと自分を正当化します。 しかし、そのような時、私たちのために十字架にまで行かれたイエス様を見上げましょう。 神様の大きな愛と憐れみによって、罪を赦された私たちは、 苛立ったり、怒りをぶつけたり、報復したりするのではなく、 神様の御前に静まり、神様に全てを委ね、その人を赦していくのです。 その人を赦し、恨みや憎しみを手放すなら、それ以上傷つけられることはありません。 何度も恨みを繰り返すのではなく赦し、恨みや憎しみを手放してしまいましょう。

この「主の祈り」の後半部分の 2 番目の祈りをする時、私たちの心は一番探られます。 神様の前にまだ赦していただいていない罪はないでしょうか。 神様に赦しを求め、神様との親しい交わりを回復させていただきましょう。Cf.詩篇 51:11,12。 また、神様に赦された私たちが人を赦すことの必要性や大切さを覚えさせられます。 まだ赦していない人はいないでしょうか。 神様の前に静まり、自分に対する神様の愛と憐れみと赦しを思い起こしましょう。 そして、神様の愛と赦しをもって、その人を赦す祈りをしましょう。 私たちの神様は赦しの神様です。ネヘミヤ 9:17、詩篇 86:15。 神様の赦しの中に生きる者となりましょう。

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