霊とまことによる礼拝

ヨハネ4:23-24

22.1.9.

この箇所は、イエスサマリヤの女との会話の一部です。イエスは、父なる神が「霊とまことによって」礼拝する「真の礼拝者」を求めておられ、「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」と言われました。「霊とまことによって」礼拝するとは、どういうことでしょう。

1.神は心からの本物の礼拝を求めている

「霊」と「まこと」とは、言い換えるなら「心からの本物の礼拝」と言うことが出来ます。「霊」に対する言葉は、「」又は「」あるいは「」という言葉です。また「まこと」に対する言葉は、「偽り」又は「偽物」という言葉です。ですから、「霊とまこと」による礼拝とは、「」や「」や「」によらない、「偽り」でも「偽物」でもない「本物の礼拝」ということです。

では、「」や「」による「形だけの偽物の礼拝」とは何でしょう。それは、エルサレム神殿で行われていた礼拝です。ユダヤ人たちは、エルサレムにある立派な神殿で、律法に従って、動物の肉をいけにえをささげて、礼拝を行っていました。文字通り、その礼拝は、「」や「」による「形式的な礼拝」でした。また、ユダヤ人たちは、律法に従ってエルサレム神殿で行う儀式が、本物の礼拝である確信し、自信を持っていました。しかし、エルサレム神殿で行われていた儀式は、キリスト贖いのひな型であり、天の御国で行われる本物の礼拝の影(映し)だったのです。

このように、ユダヤ人たちがエルサレム神殿で行う礼拝は、「」や「」による「形式的」な「偽物」の礼拝となってしまっていたのです。すなわち、その礼拝は、形だけの形式的礼拝、心の伴わない表面的礼拝、自己満足の礼拝となってしまっていました。が求めておられる礼拝とは、単なる形だけの形式的礼拝、心の伴わない表面的礼拝、自己満足の礼拝ではなく、「心からの本物の礼拝」です。

2.それは心を尽くして神を愛する礼拝

「心からの本物の礼拝」とは、どのような礼拝なのでしょう。私たちは、礼拝スタイル(様式)のことを思い起こすのではないでしょうか。例えばどのような音楽のジャンルか、どのような楽器を使うかなどに関心がいってしまいます。礼拝スタイルというのは、結局は、自分の好みによるものが多いようです。

しかし、は、私たちがどのようなスタイル礼拝するかには関心がありません。が関心をもっておられることは、礼拝スタイルではなく、私たちの心の姿勢です。私たちに問われていることは、どのようなスタイルで礼拝するかではなく、どのような心で礼拝するかということなのです。

が求めておられる心とは、どのような心なのでしょう。それは、神を愛する心です。大切なことは、スタイルではなく、神を愛することなのです。聖書には、を愛することが命じられています(申6:4-5)。イエスは、「これが大切な第一の戒めです」(マタ22:38)と言われました。礼拝とは、神に対する愛の現れです。神を愛する心礼拝となるのです。私たちは、を愛しているから、礼拝において、賛美をささげ、祈りをささげ、献金をささげ、語られる御言葉に応答し、自分自身をささげるのです。

しかし、もし神に対する愛がなければ、礼拝はただの義務や束縛でしかありません。賛美も、祈りも、献金も、説教も重荷となり、私たちを苦しめるものとなるだけです。私たちが心から神を愛しているなら、内側から自然と神への礼拝が湧き出て来るのです。その時、もはや義務としてではなく、心からの喜びに満ちて礼拝するようになるのです。「神を愛する礼拝」こそ「心からの本物の礼拝」であり「霊とまこと」による礼拝なのです。

3.まず神が私たちを愛して下さったから

初めから私たちの内に神への愛があったわけではありません。まずが、私たちにご自身の愛を示して下さったのです。それは、御子キリストを私たちに遣わし、私たちのために供え物として、十字架の上でその命をささげて下さったことによってです(Ⅰヨハ4:10ロマ5:6-8)。私たちがを愛するのは、まずが私たちを愛して下さったからなのです。私たちの神に対する愛は、の私たちに対する愛に対する応答なのです。

ですから、私たちがを愛し、礼拝するのは、神が私たちを愛して下さったからなのです。私たちが神の愛を知り、神の愛に満たされる時、私たちにも神への愛が生まれ、私たちの内から神への礼拝の思いが湧き出て来るのです。ですから、礼拝は、「神の愛に対する応答」と言うことが出来ます。

礼拝のスタイルは、教会によって様々です。礼拝のスタイルの違いは、それぞれの教会の置かれている社会の文化や習慣、またそれぞれの教会の聖書理解や確信や伝統によるものです。大切なことは、違いを批判することではなく、違いをリスペクト(尊重)することです。どのスタイルであっても、「霊とまこと」による礼拝なら、は喜んで下さいます。

しかし、気を付けなければならないことは、神の愛に感動してではなく、礼拝スタイルに感動して、礼拝した気持ちになってしまうことです。礼拝は、音楽や演出に対する応答ではなく、神の愛に対する応答です。私たちが「心からの本物の礼拝」、「霊とまこと」による礼拝をするためには、がどれほど私たちを愛して下さったかを知らなくてはなりません。

 

は、「霊とまことによって」礼拝する「真の礼拝者」を求めておられます。「霊とまこと」による礼拝は、「心からの本物の礼拝」であり、が私たちを愛して下さった愛に応答する、を愛するゆえの礼拝です。は、私たちの礼拝のスタイルではなく、私たちがどのような心での前に出ているのかを見ておられるのです。自分が求める礼拝ではなく、が求めておられる礼拝をささげましょう。

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