25.4.6.

サムソンは、どのような士師だったのか。サムソンからどのようなことを教えられるのか。

1.サムソンは神に選ばれたナジル人だった

サムソンは、生まれる前から、神によって、特別に選ばれた「ナジル人」だった。「ナジル人」とは「ささげられた者」「聖別された者」すなわち「神のもの」という意味。それは、イスラエルをペリシテ人の支配から救い出すためであった。また、サムソンには、人並みはずれた力があった。サムソンは、襲って来る獅子を素手で引き裂き(14:5-6)。ろばのあご骨で千人のペリシテ人を打ち倒してしまった(15:14-15)。また、サムソンは、ガザの町の門柱と扉を引き抜き、山の頂まで運んでしまった(16:1-3)。このサムソンの力は、神から与えられた力だった。サムソンに主の霊が注がれると、特別な力が与えられた。

このサムソンの姿は、私たちクリスチャン、教会の本来あるべき姿と言える。私たちもサムソンのように、生まれる前から、神に選ばれている。それは、人々を悪魔の支配から救い出すため。エペ1:4,5。ヨハ15:16。Ⅰペテ2:9。また、私たちにも聖霊が注がれる時、大きな力が与えられ、イエス・キリストを宣べ伝える者となるのである(使1:8)。私たちは悪魔に支配され、苦しめられている人々をキリストの救いによって解放し、神の支配へと導く使命と目的が与えられている。

2.サムソンは誘惑に従い力を失った

サムソンは、デリラという女に心を奪われてしまった(16:4)。デリラは、サムソンに彼の力の秘密を聞き出そうとした(16:6)。デリラは毎日サムソンに本当のことを明かすように迫り続けた(16:15-16)。そして、ついにサムソンは、自分の力の秘密を明かしてしまった(16:17)。サムソンは、デリラの膝の上で眠っている間に髪の毛を切られてしまった。そして、サムソンからは、力は失われてしまった(16:19)。しかし「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」(16:20)。サムソンの力は、長い髪の毛にあったのではない。サムソンの長い髪の毛は、サムソンがナジル人である「しるし」であった。サムソンの力は、サムソンが聖別され、神にささげられ、神のものとして、神との関係の中にあったゆえに、与えられた神の力だった。しかし、サムソンが長い髪の毛を失ってしまったということは、もはやサムソンがナジル人ではなく、神のものでなくなってしまったということ。そして、神との関係を失ってしまった時、神の力を失ってしまったのである。

サムソンは捕らえられ、目を取られ、足かせをかけられ、牢の中で臼を引かされた(16:21)。これは、今日に生きる私たちクリスチャンと教会に対する警告でもある。

① 霊的視力を失う

サムソンの目がえぐり取られて、何も見えなくなったように、霊的な視力を失ってしまう。すなわち、信仰の目で神を見ることが出来なくなり、神が分からなくなる。何が正しいことか、間違っていることなのか、見分けることが出来なくなる。神からのビジョンも見失い、夢や希望もなくなってしまう。

② 自由を失う

サムソンが青銅の足かせをかけられて、自由を失ってしまったように、罪の力に捕らえられて、罪に抵抗出来なくなり、自分の欲に従って生きるようになる。そして、この世の虜となり、この世の流れに流されるままになってしまう。そのため、神に祈り、神に従い、神に仕える自由がなくなってしまう。

③ 生きる意味を失う

サムソンが牢の中で、毎日、臼を引いて、同じ所をくるくると回っていたように、毎日、何の目的もなく、ただ同じことを繰り返すだけで、何の意味もない、空しい人生を歩むようになってしまう。

3.主の臨在と力を失わないために

サムソンが力を失ってしまったのは、サムソンがデリラを愛するようになったから。「デリラ」は、へブル語では「弱くする」、アラビア語では「誘惑する女」という意味。デリラは、その名の通り、サムソンを誘惑し、弱くしてしまった。このデリラは、誘惑する者、試みる者である悪魔、サタンを表しているとも言える。悪魔は、ペリシテ人がサムソンの力を奪い、無力にしたいと願ったように、私たちからも力を奪い取ろうと隙をうかがっている。Cf.Ⅰペテ5:8。

主の臨在と力を失わないために、どうしたらよいのか。

① 誘惑となるものから離れる(逃げる)

誘惑と戦っても、誘惑には勝てない。かえって、誘惑が強まり、誘惑に負けてしまう。誘惑と戦うよりも、思いを他のものに向ける方がより効果的。誘惑となるものを見ない、誘惑となることを聞かない、誘惑となる話に乗らない、誘惑の場から立ち去ること、誘惑の場から逃げ出すことが重要。サムソンは、早いうちにデリラから離れ、誘惑を断ち切らなければならなかった。

② 神との関係の中に生きる

誘惑となるものから離れるだけではなく、神との関係の中に生きることが必要。サムソンは、デリラとの関係を続けるため、神との約束、神との関係を軽んじてしまった。私たちも聖別され、神にささげられ、神のものとして、神との関係に生きることが必要。それは、日々、御言葉に養われ、御霊に強められ、自分の肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、御霊に従って生きなければならない。ガラ5:16,25。

 

「しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。」(16:22) サムソンは、再び、心を主に向け、主を呼び求めるようになった(16:28)。サムソンは神殿の柱を引き倒した。そこにいた大勢のペリシテ人を滅ぼした(16:29-30)。私たちは聖別され、神にささげられた者である。人々をキリストの救いへと導くために、自分の肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩んでいこう。

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